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※ ヨナ様が語られた聖書の重要性いま一度 ※


 以前ヨナ様が、若い人中心の修練会で語られた、聖書についての内容です、三時間以上、眠い二世達に語ってくださった内容です。だいぶ前でしたが。
このブログでだいぶ前に自分の勉強のために動画を文章化して掲載しました。


聖書の重要性を感じる昨今ですので、今一度勉強したく読み始めました。
 聖書に精通しているクリスチャンは何が正しく何が間違っているかをはっきりと知っているのに驚きます、カン・ヒョンシル真のお母様は体中の細胞に聖書のみ言がしみわたっておられるとのことです。本当に聖書の必要性を感じます。


UCでは、旧約聖書も新約聖書も、原理より下に見る傾向がありました。そのため、今も聖書に精通されておられる享進二代王様が、聖書を中心に語られることを、理解していません。
しかし、聖書には神様の考え方、価値観がすべてあります、旧約聖書の神様は喜怒哀楽のはっきりとした、人格神を感じます、
 そしてアメリカ福音派の中でも、神様の意図をしっかりとつかんでいる人々は、鉄の杖のことも、はっきりと理解しています。聖書をしっかりと勉強する事の重要性を感じ、今一度、ヨナ様が語られた内容をブログに掲載します


最初に鉄の杖の重要性を大変分かりやすく語ってくださった、
アメリカの兄弟の内容を最初に掲載します


この鉄の杖を理解するために。。。


「憲法が発布されたあとに修正された10か条 
その中の一条と二条が最も重要、やはり議論があったそうですが、
もともとあった憲法では
国民を守ることはできない。
基本的人権の尊重の部分と、そして銃の所有という部分を
一条二条で加えた。


国進様の2012年に語られてみ言の中にあるように政府が天使長で
アダムとエバ、人間が神の子であり、
人間は天使を主幹しなければいけない立場で創造されているので、
政府が大きくなりすぎるのを絶対に止めなければいけない。



という思想がはっきりと、キリスト教、新約のなかにある。
政府が暴動をおこして、強制的に人民を掌握することができないように
すること、そしてその政府に対抗することができる為に
人民に力が無ければならない
政府だけが銃とかもっていたら絶対にやられます。



なので人民にも、ある時には政府をぶっ潰すことのできる力が必要
政府がおかしな行動をしたら政府をつぶすことのできるような力が必要
保守的なそのような考え方、



人民がまさに中心の考え方、その究極が銃器所持である
そしてこの修正第二条は絶対に外せないのがアメリカである。



これはクリスチャンたちがイギリスでも国家に主幹されてしまって
迫害された、そしてピューリタンとして、
清教徒としてアメリカに渡って出てきた歴史がある



キリスト教といえども中央集権的になってしまって、
そして政府に掌握される
そういう世界はもう嫌だといってアメリカにわたったのたのだ。



そういうクリスチャンが、中心になって、人間は神さまの子供である
キリストの体であるわれわれ一人一人がどこまでも中心である
政府が絶対に力を持てない、そのぎりぎりの憲法が修正第二条です



国民が神の子であり、王でもあり、政府が天使長ということであり、
主体性逆転が無いように、
それを防止するために、われわれが王としての位置を表す
王冠と共に銃がある、



アメリカの保守派のエバンジェリカル(福音派キリスト教徒)
には政府は、サーバント(召使、使用人)という考え方がはっきりとあります



サーバント、政府や地方組織は絶対にサーバントでないといけない
という考え方、つまり使える側でないといけない、
使える側ということは天使ということです



それが今は政府が強大になって、完全に政府が主体の側にまわっている
政府は絶対にサーバントでなければならない、
これがほんとのキリスト教。。。
知らず知らずのうちに逆転して、天使長に主幹されている、
ということになっているということです。



※ ヨナ様み言「わたしは聖書について何にもしりません」


ヨナニムみ言「わたしは聖書について何にもしりません」の内容の動画を文章にしました、文法など、色々とまちがいなどあると思いますが、とりあえず、ブログにのせます、とてもすばらしい内容なので、文章にしました、少しずつ誤字などなおして更新します。


2016,7,1のブログより


ヨナニムお祈り


(天のお父様本当にありがとうございます、今日はここに集まって聖書の勉強をいたします。あなたのみ言に対してこころを開かせてください、
これまでにある、聖書に対するいろんな偏見とか、わだかまりに対してすべてそれを取り除いて、そしてそれを学ばせてください、神様、私たちはそれを神様の言葉だとおもっております。わたしは本当にあなたに従いたい、あなたについてゆきたいとおもっております、聖書をとうしてあなたがあまりにも多く愛してくださったからです、あなたと本当の関係を築いてゆきたいとおもっております、おどろくべきキリストの名前によって、祝福中心家庭ヨナ、、、の名前によってお祈りいたします。)


 二世、ここにどれだけ、居ますか?わたしはだいぶ年上の二世です、わたしは聖職者の娘です、わたしが生まれる前から父は聖職者として働いておりました、わたしが生まれたときから父が聖職者をしておりましたので、
 わたしは、ずっと教会で生活して日曜日の礼拝を逃げるとか参加しないとかはありませんでした、すばらしい鍵を話そうとしています、これまで自分は聖書に対して話したことはありません、自分が聖書を勉強する場合、原理講論を勉強する場合、わたしはもう知っているは、、、という傲慢な時期がありました、わたしは、このペンシルベニアの荒野にやってきたときに、わたしはむかし傲慢であって聖書について、何も知らなかったということが解りました、わたしはほんとうに聖書の本質的な本性というものを知らなかったとおもいます、もちろんいろんな聖書のタイトル、本の名前タイトル、ジョンとか、、、いうのは知っておりました、もしあなたが聖書について何も知らないとおもったら、同じボートにのっています、


 自分はこのように聖書を何も知らないと感じますか、それは大丈夫です、いまから出発できます、どうして聖書を勉強しなければいけないのでしょうか、旧約聖書と、新約聖書の内容をもう成就されましたか、お父様がメシアかどうかということはこの聖書を通してのみ理解できるわけです、ほかの宗教、イスラム教でも再臨というものは、ありません、再臨ということを本当に書いてあるのはキリスト教だけですから、聖書を勉強すればお父様がよくわかるわけです、ヒョンジンニムは最近お父様と、イエス様は一緒だと、話されています、イエス様は中近東の男性です、これはちがうかもしれませんが、神様から来たという点についてはまったく一緒です、ですから初臨のイエス様とお父様とは一緒だということです、皆様は国家メシアとかいろんなメシアを知っていると思いますけれども、本物のメシアというのは、まったくそれとちがっています、それが理解できるのは聖書だけです、
 新約聖書にはイエス様が命だとか、たとえの話とかがいろいろあります、考えてください、イエス様も真のお父様であったわけです、聖書読めばわかります、聖書をよめば、それをお父様と重ねて考えることができます、イエス様がめくらの人の目をひらいた奇跡は、お父様の奇跡でもあります、イエス様が水の上を歩いたという奇跡は真のお父様の奇跡でもあります、このようにイエス様とお父様が同じであるということを理解する読み方は力強いよみかたであります、皆さんは二世として、原理講論を勉強したと思います、



原理講論の中には940もの聖書の言葉が引用されています、重なっている聖句もありますけれども、千近い聖句を引用して出来上がっているわけです、りんごジュースを飲むと考えてみてください、りんごジュースを飲む前にりんごがどういうものかということがわからないと、どうなりますか?わたしはりんごジュースは好きだけどりんごは知らない、意味がありますか、私は原理講論はすきだけど、聖書はよくしらない、というのがこれとよくにています、これ意味がありますか、八大教本をお父様は残されました、お父様が八大教材教本に手をおいて、これを祝福されたわけです、この八大教材教本の教えは、ほとんど聖書からきています、


 六百巻におよぶ、お父様のみことば全集があります、これもそうです、お父様の初期の説教は聖書から出発されています、おとう様は最初のころは、聖書からいろんなものをとっておられます、ですから、考え方というものも聖書からきています、八大教本のひとつは、平和の主人、血統の主人です、これは偉大なおとう様の説教のひとつです、この説教の中にも、お父様はいろんな例をあげておられます、アロンの知恵とかですね、アロンの知恵というのはですね、アロンの杖から新芽がでたという、聖書のなかの話から引用しておられます、ですからみなさんも聖書の内容を知らなければならないでしょう、あなたたちはみんな、そんなに勉強したくないや、、、という気持ちでしょうか、ほかにまだ理由があります、聖書を勉強しようという自然な結果ですね、神様を近くに感じるということです、ほんとうに近くに神様を感じることができます、本当に聖書を勉強すればそれを近くに受け取ることができるわけです、


あなた自身が変わることができます、どうやってわたしたちは変わることができるのでしょうか、私たちはもっと感謝にみちた人間に変わることができるのでしょうか、


私は実は、むかし感謝のできる人間ではなくて、おこることが多い人間でした、みんな想像できないでしょう、わたしは教会のなかでそだったわけで、なにか逆風のような反対のことがいろいろあったのです、教会の中には貧しい人、又は豊かに暮らしている人がいました、教会の指導者、教会の聖職者のなかにも堕落したような問題を起こした人がいました、わたしはなぜ、どうしてそんなに悪くならなくてはいけないのかと、自己正当化することがありました、外からみたわたしは本当にいい人に見えたとおもいます、しかし前は、わたしは本当に感謝に満ちた人間ではありませんでした、


いつも怒っている怒りっぽい人間でした、聖書をよんだから、わたしはもう二つの翼ができて飛んで回れるよ、、、みたいな楽観的なことはいいません、わたしはいま完全な人間よ、とは言いません、で今ひとついえることは私は今感謝できる人間になったということです、それがたとえば小さな出来事であってもそうなりました、堕落性が減ってゆく、いうことです、たくさん堕落性ありますね、みなさん、自己憐憫、自分を哀れにおもうことも堕落性のひとつであると思います、わたしは実にとんでもない娘、とんでもない息子であると思うこともそのひとつです、


結婚してますか、とくに女の子たち、結婚したらあなたたちはこういう道をたどるのですよ、わたしはどうしてこんなに悪い母親なんだろう、わたしはどこがまちがっているのだろうって思うわけなのです、私はこういう道をたどるということを今から保障してあげます、男の人は自己憐憫するのでしょうか、自分は終わりだなぁと、、、、自分の奥さんは悪いのだと、、、それは単に自分の奥さんを突き上げているだけなのです、どうして自分はそのように悪くならなければならなかったのか、わたしはこんなによくできているのに、あなたはどうしてそうなの、わたしの子供はどうなっているの、どうしてそんなに悪いの、それは堕落性ですね、自分のことを考える前に、ほかの人を指差して注意しているわけなのです、それも堕落性ですね、わたしは聖書を勉強してから、いろんなことを内的にわかる人間になりました、わたしは完全ではありませんけれどもそれです、わたしの子供たちに聞いてみてください、わたしも金切り声をあげて叫んだりすることがあるわけなのです、(笑い)

 もとのテーマにもどりたいとおもいます、口にできない語ることのできない喜びがある、、、人間ですね、 ときどきだれかに批判されたりします、だれかがわたしたちを批判して悪いことをいったりします、だれかがヨナニムは偽善的な人だ、ということがあります、頭の中にそれが張り付いたりします、 


 これをどうやって、これを取り去ることができるのかって、、、皿洗いをしているときでさえも、そのいやな言葉が自分の頭の中におこってきます、どうしてわたしにそんなんことを言っているのかと、周りの人が、あなたはなんでもいろんなことを知っているのよね、っていわれることもあります。そういわれたことが、頭にへばりついて、どうしてそうなのだろうと思うことがあります、マイクがわたしにそんなことを言っているなんて信じられないわ、、、と思うこともあります、だれがそうなのって、ひとびとの意見というのはいつもゆれているわけです、朝にはとってもいい雰囲気の中に生きていたわけです、マイクがわたしにそういう話をしたことによって、その後 マイクがもっと悪いんだ、、、、わたしは信じられないは、、、とおもい、だれがそうなの、、、と、ほんとうにいつもゆれていますね、、



人々の意見というのはいつもゆれているわけです、朝にはとってもいい雰囲気の中にいきていたわけです、なにかがおこったとき、わたしたちはそれにふりまわされて、主管されてしまうわけです、そして私たちのよろこびはどこかへ飛び去って、わたしたちの喜びというものはいつも、一時的です、、、、

 
聖書を読んで勉強するということは、生きた神様との関係をきずくということです、あなたはほんとうに、よろこびについて語る経験があるでしょう、、、
 この3については生きて働く聖霊についての内容です、いまいろんな人が証をしていますけれども、神様がわたしにこんなふうに証しました、と、そんな予言的な証があると思います、まあなんてこった、この人は神様と話ができるとおもっているの?そのはなしをきいて、自分としてはそんなにいい気持ちではないわけです、その人は次の霊媒師になりたいとおもっているのですかって、、、


 聖書をよむとですね、神様が、生きた聖霊が働いて、自分たちを導いてくれているのだなということがわかります、それはなんと美しいことでしょうか、それは神様がわたしたちを想像された目的です、神様が私たちと直接話ができるということです、祝福家庭の価値がほんとうにわかるということです、何人祝福を受けていますか、若い人はまだ祝福をうけていませんね?考えてみてくださいわたしたちはなぜ結婚しないといけないのでしょうか、どうして結婚生活を維持しないといけないのでしょうか?どうして私たちは祝福を受けないといけないのでしょうか、どうしてわたしたちは信仰深くなければいけないのでしょうか、そとの世界の男性のアンケートによりますと、そのアンケートで質問したわけです、あなたはかって不倫をしたことがありますかと、質問しました、その男性の答えにハイと答えた人がいます、どうしてあなたはそれをしたのですかという質問がつぎにしますと、どうしてそれをしたのだとおもいますか、“いいきもちになりたいからやっ”た、


 おおくの女性だっていま不倫とか浮気をやっています、どうして不倫をやったか、どういう理由だとおもいますか?第一の答えは何だったでしょうか?、、
 “だってそれって可能なんだもん”できるからやったんだよ、、ということです、だっていくらでも不倫なんてできるんだもん、という考え方です、だから結婚にたいしてそれを大切にしようというものがないわけです、もしあなたが一生懸命聖書をよんでよく理解できたら、そんなことを口に出すことがはずかしいと思うでしょう、



 聖書というのはすべて神様との直接の関係について書かれております、聖書を勉強するべきだと思いませんか、これが聖書を勉強するとてもいい理由だとおもいませんか、若者たちがどうやって信仰の道にゆくことができるのかということを、ヒョンジンニムはかたっておられます、
 
 真のお父様を理解する、三つの段階


神の実在を知ること


 このことをちょっと知らせてみたいと思います、ほんとうにあなたは実際に神様を信じていますか、こころのなかにほんとうに正直にたずねてください、ほんとうに神様を信じていますか、そうでないといけない、なんかそうだよな、、、そんな感じですか、唯心論と無神論の討論のときにこの内容はとても役に立ち内容です、これは第一歩ですけれども、第三段階は原理講論とお父様を勉強するということです、わたしたちはキリストに対する信仰生活を持ってゆくわけです、信仰生活ということ、これはほかの人に見せるための信仰生活ではありません、これは本当の関係です、聖書というのはほんとうに大きなテーマですね、数時間では聖書の内容を網羅するのはむずかしいとおもいます、この内容を今日は持ってきました、今日は聖書の内容、成り立ちについて述べたいとおもいます、知的なラインですね、内的なみ旨という観点においてですね、内的な心情的なレベルにおいてのことですね、神様は知、情、意の三つをもっておられます、


今日は四時におきたので、ねむたいですか、、、、そういう時間ですか、最初に知的な部分を話、三つのグループにわけてゆきます、そしてディスカッションして、ここで発表するというわけです、知、情、意、三回ディスカッションして、ここで発表するということです、日本のお姉さんが訳してくださったので、この紙には英語と日本語で聖書の成り立ちが書いてあります、聖書を勉強するときにある、三つの障害物について、たくさんあるのですが、三つに分けて分類しました、



知的な面においての障害物


聖書は人間の言葉なのにどうして、神のことばなのか、という疑問があります、知的な理屈っぽい話ですね、たくさんの翻訳の、ジェームスオー版とか版が有るわけですね、歴史をとうして聖書を探ろうとしているんじゃないか、というのがあります、歴史をとうして聖書を勉強した、ユダヤ人は偉大だというのがあります、聖書をとうして、イエス様は偉大だとか、しかし六千年前だれがそんなこと知っていますか、四世紀の時にローマ帝国のときにかかれたものです、その場合イエス様と関係ないそのあとの話です、じゃあその四百年のあいだ何が起こったのでしょうか、その四百年のあいだ、たくさんの歴史的資料というのもがありますから、質問にこたえられるとおもいます、そういうことがあるから聖書は疑問だらけなんだよね、、、、ということになります、今のことについて少しだけの疑問がでてきますか、ほんとうにこれはいろいろ考えなければならない疑問であります、聖書を勉強すればそのようなこと、簡単に答えがでてきます

 次は意の世界です



聖書を読むと、いつも挫折して不可能だわ、ということになります、ああなんてことだ、とってもたいくつだということがあります、字ばっかりで、絵がないじゃない!、、、言葉ばっかりです、こんな本なんか読みたくない、、、読む気がしない!、、、聖書を読むんだけど、何の意味だかさっぱりわかりません、すぐ眠くなります、だれか言ってましたよ、自分が夜ねむりにつけないとき聖書をよめばほんとうにすぐにころっとねむりにつけます、
 意の世界ですけれども、これは意思の欠如ということです、聖書を読むことにおける障害物のひとつです、心情的な世界における障害です、心情的な問題でお父様は十字架をおろせといわれていますけれども、聖書の中にはいたるところに十字架についてかいてあります、だから自分はそれは受け入れられないという気持ちがあります、十字架を見たときにそんなに気持ちがいいわけではありません、なにかイエス様についていわれてますか、四人の聖人の中でイエス様は一番位の高い人といわれてますか、聖書の中にお父様がいっておられるのは、ひとびとが苦労して、ほんとうにこう生きないといけない、アア生きないといけないそして、十字架をせおって苦労しなければならないというみ言葉がありますが、それは全部聖書からきています、だからこのことについて考えなければいけない、イエス様は霊的救いのみを成し遂げた方であります、そして真のお父様は肉的救いまでも成し遂げた方でありますから、お父様のほうがバージョンとしては五とか六とか高いわけです、ですから、バージョンのひくい三くらいの聖書をなぜ読まなければいけないの、という気持ちがあります、



もしイエス様が霊的救いの基台をつくらなかったら、お父様の肉的救いの基台もなかったわけです、聖書には女性について低くする話がいっぱいあるわけです、ベールをかぶれとか、片隅にいっていろとか、教会の指導者にはなれないというマイナス的な話がいっぱい出てくるわけです、これはもう感情的な側面のことが書いてあります、男性は男性で本当に正しいのだ、男はこうなのだという話があります、どうしてそうなのですか、聖書というのはほんとうに貞操感のつよい女性のことが書いてある本です、聖書が男性についてばかりではなく、女性についても書いてあります、聖書には女性は男性によって作られた、女性はそれ以下であると、かいてあります、神様はイブをアダムに紹介したとき、アダムはこういいました、これは私の骨の骨わたしの肉の肉である、彼女は女とよばれるであろう、パウロはエペソ教会とコリント教会についてのべています、パウロはローマ書の手紙で女性のリーダー、コナンという女性の教会指導者リーダーを高く評価しています、この世に戦争とか悲惨なことがあるので、もう神がいないのではないかという感情的な考えがあります、

 この知的な面での障害物、そして意的な面での障害物、そして情的なすべての面での障害物がわたしたちの頭の中でぐるぐる回っています、こういう大きな問題がわたしたちの頭のなかでのしかかることで、わたしたちは聖書から一歩二歩、三歩とどんどん引いて離れてゆくわけです、そして本当に聖書を読もうとならないわけです、わたしたちはもう聖書をみることができないわけなのです、聖書が遠ざかって聖書が黒い点みたいになっているわけです、いま話した内容はわたしが、かってその様な状態にあったというわけです、


 今出てきたような、疑問質問障害がいっぱいありました、わたしがかって傲慢だったからです、で福音はわたしを変えました、そしてお父様をもっと、深く愛するようになりました、でこのような疑問があなたの心に浮かんだら、ほかの疑問もいっぱい浮かんでくるでしょう、神様にたずねてみてください、確実なことをあなたにお話したいと思います、あなたが真剣に尋ねるなら、もしほんとうに尋ねるならその答えが来るはずです、あなたに答えを与えてくれるでしょう、その答えがいまではなくても、必ず答えがくるはずです、それは神様が与えてくださるタイミング、時であります、ここにいる皆さんよりも20歳以上としうえです、だからそういってあなた方にいうことができるわけです、わたしの人生で疑問におもったことがたくさんありますが、神様は答えをあたえてくださいました、わたしはその疑問に対してそれは絶対不可能だとおもいました、しかしそんな難しい問題に対しても神様は答えをくださいました、


ほんとうに年上の信仰深い姉妹たちに尋ねてください、信仰のある人たちに尋ねてみてください、おなじようなことをいうでしょう、聖書は読んでそんなに難しいのでしょうか、これは天からあなたの前に落ちてきた、単なる本ではありません、文化的な背景があるというわけです、地理的な背景があるというわけです、フランスで起きたことではありません、日本の真ん中で起きたことではありません、これは中東のエルサレムのあたりで起きた出来事です、聖書を読むときにその当時の地理が頭に入っていなければなりません、どうしてヨルダン川を渡ったのか、どうして紅海を渡ったのか、ということは聖書を見ればそのことがわかるわけです、ヨナが神様の命令から離れて逃げていったとき、かれはタルソスという町に逃げました、地の果てみたいなところに逃げたわけです、その地図でみればとってもおもしろいのですが、こころのそこで、かれは地の果てまで逃げたと思っていたわけなんですが、で地図をみればもっといろんなことがわかるわけです、当時の政治的な背景状況もわかります、イスラエルは本当に小さな国です、イスラエルとは、本当に小さな国なのに、周りにはエジプトがある、シリアがある、そして、ギリシャがある、ローマ帝国がある、小さな国が強大な国にとりかこまれている、なのでこの信仰をたもたなければいけないような状況になっている、その政治的背景が分からなければなぜこのようなことをいっているのだろうと分からないとおもいます、理解しにくい内容があります、聖書に対して予備知識がないがゆえにもっと理解が難しいのです、だから聖書を勉強するときはもっと深い内容を知ろうと決意して始めないといけないのです


この三つのことをよく考慮して勉強しないといけないです。聖書というと、あれをやった、これをやったと、とっても退屈な書物だとおもいます、もしそこに基準がなかったら、、、(前の女性を見て)ともはさんに、あなたはどうして神様を信じるの、とききます、、、わたしは交通事故にあって、死にそうになったところ、光り輝く天使があらわれて、すくわれたので、わたしは神様を信じるようになりました、、、、、という話があります、(前の男性を見て)よしひろさん、どうして神様を信じるのですか、何にもしてくれないのに、どうして神様を信じるのですか、わたしの両親をみて彼らほど献身的な人を見たことがないから、神様を信じます、、、両親をみたら神様みたいなので、だからわたしは神様を信じます、、、そういうかもしれないですね、、、いろんな神にいたるみちをたくさん議論したりします、神様の法は神様の神聖が拡大したものであるとヒョンジンニムがおっしゃいましたね、神様はその単語をつかっておられません、ことばはつかわないですが、そういう人をつかっています、神様はどういうものが好きだということが分かる言葉があります、聖書をよむといろんな道があって、この道が自分と神様がコミニュケーションする、道だということがわかります、聖霊をとおして信仰を持つということ、聖書を完全に理解するのは聖霊をとうしてしか理解できません、完全に理解するには聖霊をとうしてしかないというわけです、今おとう様は肉体がないので聖霊のようです、おとう様は私たちとともに生きておられます、真のお父様のその協助によって、わたしたちはお父様のみ言葉を完全に理解できます、 ヨナ様が聖書を読まなければいけないっと、、いった、だからみんな聖書を読み始めよう、、、、!

 創世記Ⅰとか、、、  創世記二章からとても難しくなります、 創世記から、そして黙示録にいたるまで、マタイによる福音書、むずかしいから読み終えないのですね、涙だけでてきます、できないできない、どうしたらいいの、、、、ヨナ様は特別な 人だから読めるけどわたしは読めないわ、、、とおもいます、それほんとうじゃないですね、聖書の基本的なつくりはどうなっているのかというとですね、聖書は全部で66巻あります、そして旧約聖書が39巻あります、新約聖書が27巻あります、そして何人か作者がいますし、トータルで40人くらいのひとがいます、聖霊によって感化をうけて書かれたといわれています、39巻の旧約聖書の本の中で、17が歴史書です、5が文学作品、17が予言書です、最初に歴史書、次に文学、そして予言書がでてきます、聖書39巻のなかのですね、ヒストリーです、これが歴史的、政治的、5つの文学書というのは、詩編とか雅歌とか文学的内容が書いてあります、そして17が将来どんなことがあるとか、神様の予言が書いてあります、新約聖書は27巻から出来上がっています、四つの福音書があります、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、これは同じイエス様の生涯を書いた作品でありますけれども、四人の作者が自分たちの観点で書いた福音書です、ヨハネによる福音書を最初に読むことをおすすめします、それはいろんなおもしろいはなし、いろんなことを書いてあるので、それが最初に読むのにいいと思います、この四つがひとつになっています、歴史書がひとつあります、使徒行伝です、イエス様が十字架について、四十日後、弟子たちがどのように動いたかというのが使徒行伝です、歴史です、22の弟子たち使徒たちの手紙があります、愛とは何かということについて書いてあるのがこの手紙の中に入っています、歴史がこのようになっております、もし聖書よむなら、歴史を読んでくださいね、予言の最後から、使徒行伝にいたるまでに、400年の期間がありますこれをみると、聖書の中で、歴史がどのように進んでいったかということがわかります、歴史の順番どおり書いているわけではありません、本当にとんだりしています、歴代史ですね、列王記があります、そのあとに歴代史があります、列王記の最後にイスラエルが滅びるとあります、その後歴代史がつぎの回にでてきますが、この歴代史の最初ががアダムとイブの話がでいてきます、国が滅んだのに、またこれがでてきますので、頭が混乱します、順番どうりにゆくとそういうことがあるわけです、


みなさんディスカッション、討論の時間です


プリント見たください第一の質問があります、だれか最初の質問を読んでいただけますか、 一、、、、、、、キャンディ食べないでください、、、、キャンディで同じグループ作ってください、、、、、一組ずつすわってください、今知的な部門においての質問を受けています、、、自由に形を作ってください、、、グループ一番です、まず質問よんで、どんな質問があがったかを、、、聖書について、誰が直接的に書いたかという質問があります、質問、旧約聖書のなかに、、、エリコ城をぐるぐるまわって、陥落させたというはなしがあります、そして、、そのなかでラハブという女性が ヨシュアとカレブをたすけて、その家だけが助かって残ったという話がありますが、実際の最近の考古学でほってみたら、そこにほんとうにひとつだけ残った家があったわけです、それで神様を知らない考古学者がこれはいったいなんだろうと、いまそれがほんとうにあったのだということがわかる時代になりました
 四つの福音書は百年以内にかかれています、四世紀に聖書が成立したという話がありますが、それは間違いです、最初のころからイエス様に関する福音書は伝記のようなものが書かれていて、その四つの伝記以外にマリアによる福音書とかさまざまな17くらいの福音書があったわけです、


(姉妹) なぜ聖書を勉強するのかという質問です


ヨナニム:それはひとつの方法です。


(姉妹):わたしはイエス様について会ったことがないのに、、、


(ヨナニム)
 今いきている私たちの世代はとても幸福な世代です、生きていて、お父様に肉的にも霊的にも出会うことができました、しかし、私たち以降のお父様と一度も会ったことのない人の世代はどうでしょうか、イエス様に会ったこともないのに信仰を持ち続けてきたクリスチャンと同じように、ただ、み言をとうして聖霊の役事をとうしてしかイエス様のことも、真理であるということは理解できないのです、だからお父様が聖和された以降においては、私たちシックの立場というのは、非常にクリスチャンたちとよく似ています、ですから聖書を勉強していかに霊的に理解しながらみ言を勉強するか、、、、 聖霊にはたらく霊もお父様の霊であるわけです、だからクリスチャンのそういう内容を学ばなければいけないと思います、
 この教会の二世は、、、、一世はお父様に対する理解もあるし、み言をよんで理解もありますが、二世に関しては聖書もよまないし、お父様のことを見ても気違いだと思ったりします、ですからお父様が絶対従順というと、二世はかっと、首を絞められて、くるしいと、そして純潔を守りなさいと言われたら、友達はみんな堕落しているのになんで私だけ純潔を守っているのといって、非常に戦いくるしむわけです、ですからそういう状況の中にあって、今わたしたちはこういう勉強をしなければいけないわけです、“アダムとエバはほんとうにいたのだろうか


“答えがある人はどうぞ” 
 旧約聖書の最初の方には、創世記、申命記、レビ記、、、の五つがあります、これはモーセが書いたといわれておりますけれども、ほんとうにモーセが書いたと思えますか、そういうふうに、みんな思っているわけです、とくにアダムとエバの話が創世記の最初の方にそれが書いてあるので、大昔のことなので、ほんとうにモーセが書いた本なのか、内容は正しいのかと、みんなうたがっているわけです、創造論が正しいのか、進化論が正しいのかという問題があります、
人間が本当に神様かれ作られたものなのか、それとも、偶然がかさなってできたものなのか、つねに、創造論と進化論という戦いがあります、モーセの書いた聖書の内容がほんとうなのかどうなのかという問題なのですが、モーセという人はそれまでのことの資料をあつめて書いたのではないかと、 モーセ時代粘土板に書く技術が進んでいたので書いたのではないかと言われています、最初のユダヤ五書はユダヤのいろんな資料を集めて書いたと言われています、イエス様は、わたしはアブラハムの前からいるのであると、聖句にあります、アブラハムというのはモーセよりも前の時代の人ですね、アブラハム、イサク、ヤコブ、、そのヤコブの子孫にモーセが出てくるわけです、ですからイエス様というのはアダムであり、後につづくモーセとかダビデとかそういう歴史上に現われた信仰深い人々が同じように、聖霊がやどった人たちが現われて、その人たちがイエス様のような活躍をして、出来上がってきているものですから、聖霊がやどってモーセが書いたものであると理解されます、進化論とか創造論かということになるのですが、最初の人間がいたことは確かで、その子孫がモーセであったわけです、そしてモーセからずっと先祖にさかのぼってアダム、エバに行くことはたしかなのです、そして何が大事かというとアダム、エバと神様がつながっていたという、神とのつながりが大事だということです、


 わたしの説明でわからないと思うかもしれません、それでもいいです。
聖書を学べば学ぶほどその深さがわかってくると思います、ほんとうに、わたしが言うというよりも聖霊が働いているわけです。


第二の質問に答えていただきたいと思います、


 情的な面において、聖書の勉強がどんなものであるのか
聖書の勉強をして、ここにはエレミヤの書があると、予言の書があると、いろいろやってゆくうちに、わからなくなってゆくのですけれども、それでいいのだろうか、と、これでほんとうにわかっているのだろうかという気持ちがでてきます、ここにある聖書のチャートを覚えたとしてもあなたは満足できますか、 
 神様を心で感じないと満足できないでしょう、
ヘンダー・カビンという人が神と出会って書いた本です、どうやって神と出合うのでしょうか、みんな、そういった証、経験を持ちたいでしょう?
 これはあるひとつ典型的な流れです、出会うかたちです、わたしたちは気がついてないのだけれど、いっぱいあるわけです、そういうものがいっぱいあります、人がそこに歩いていますけれども、神様はあなたと際限なく関係を持ちたいと思っていること、それはほんとうのことです、その関係、愛の関係は個人的なことです、 神は愛だと感じたことがありますか、神は愛だと信じていますか、どうやってそれがわかるんですか、神様は審判の神様ではないのですか、神は時には苦痛を与えます、神様はヨブに対して死ぬようなめに会わせました、自分の兄弟で障害がある兄弟がいます、彼の人生というものは、本当に刺激的なものがあります、


 むすこが五人いる人のお父さんにあいましたが、ヘリコプター事故でそのとき死んで即死でてしまいました。そのお父さんは電気技師でした、その事故がおきたその場所で死んだわけです、そんな人生をみて神は愛だと思いますか、


 私の兄弟に障害者がいますが、ある人がてをとって、“神は愛ですよ”と言いましたが、本当にそのように思いますか、受けとめられますか、本当に神様が愛だと確信できますか、確かですか、神様は愛だと。。。“私はそうはいえません”
神は愛だということについて、ヒョンジンニムは今朝おもしろいことを言われました、神様はほんとうに泣かせるような試練を与えられます、そうすると神様助けてくださいといいます、そうすると神様は私をもっと泣かせます、それが愛です、わたしはむかし神が愛だとを理解することがほんとうにむずかしかったのです、どうであれ神様は愛です、そんなに苦労したわけではありませんが、私の人生の小さな経験からしても神は愛だと思います、苦しみを通過する中でも、この荒野で生活する中でも、神は愛だと私は言えます、この答えがほんとうに葛藤するかも知れませんが、この言葉であなたがたが、葛藤を覚えるなら、私は神にしたがって理解するように、神に従います、私は今神に従っているとこころです、いっしょに神様に従ってゆきましょう、神様がいたみや、苦しみをたとえ与えたとしてみ、神様はずっと愛の関係を求め続けています、モーセはエジプトから追放されました、彼はほとんど殺されそうになりました、
 でもその最後にかれは神は愛だとさとりました、
次は神様はあなたに、神さまのみ旨に参加してほしいと願っております、神様は愛しておられるだけじゃなくて、一緒にみ旨がやりたいと思っておられます、どうやって神さまは私たちに語りかけられるのでしょうか、神さまはわたしたちに、聖霊を通して、祈りを通して、環境を通して、教会をとおして、また自分を通して、それが神さまにいたるための路程であるわけです、神さまが私たちを、自分の方へ引き寄せて、引き寄せるだけではなく、話がしたいわけです、そして、導きたいわけです、神様がモーセを燃えるシバを通して導かれました、そこで、神さまに出会いました、


第五は葛藤がおきると言うことです


 神さまは信仰を通して導かれようとしているわけですが、そこに色んな危機があるわけです、自分の力では何もできないという、色んな試練がくるわけです、そしてついに私自身ではどうにもできないというわけです、 ヘブル人がエジプト人に支配されていた時のように、彼らは何とか、エジプトで奴隷であることから逃れようとしました、そして彼らは途中で金の神さまを拝んで、そういう別の神様をおがんで、、、神さま私を助けてください、私はもう自分では何もできませんという危機におちいりました、だから神様は信仰と行動というものを要求されます、そこで変えようとします、モーセはミデアンで生活をしていましたが、妻と子供がいて結構快適な生活をしていました、ところが神が一変、エジプトに戻って自分の民を解放しろと言われました、しかし、その時モーセは自分はそんなことはとってもできませんといいました、モーセは快適な生活から変えて、すべてゆだねて変えてゆくわけです、そして彼は従順になって変えてゆくわけです、彼だって逃げることはできました、でもかれは神様を信じていたから、そうしなかったわけです、で、奇跡を見せました、かれは従順にしたがったので、最後は神様に出会いました、わたしはこういう方法が型にはまった、神様に出会う方法だとは言っていません、これは神様とどう出会うかということのひとつの例です、
 最初にみなさんは、こういうふうな路程を通過したりします、みなさんサンクチュアリー教会へ行ったということで、こういう経験をしたのではないでしょうか、こういう典型的な神様を経過した人それを発表してください、もう一度グループを作りなおします、


“ヨナニム日本語で“ “みんな、寝ているのじゃないですね、ははははは、、、”


グループで討論会中、、、、、


 (姉妹からの質問) 
 旧約聖書のヤコブのところにありますけれでも、ヤコブは中心人物なのですけれども、奥さんがいて、愛人がいて、一夫多妻をやっていますけれども、どうしてそういうものが、、、又、現在でもそういうものが、ほんとうに悪いことだと思っているのになんで、神様の復帰摂理では、私たちの倫理では悪いことと思えるような人たちが、中心人物として立って、神様が善としてやっているのかということ、、、、


ブログ主 誤字とか、読みにくいのを少しずつなおします、とりあえず掲載してますすみません、、、、



(日本の姉妹の発言) 


はっきりわかりませんけれども、たぶん善と悪というのは、神側に立って行いをしているか、サタン側に立った行いか、だから色んな女性と関係をもつことも、神側の血統を残すためにしている行動か、そこがポイントじゃないかと思います、


(ヨナニム)
その当時、アブラハム、イサクは神の意思によっていかに神の血統をふやすかということが重要でした、ヤコブも二人の女性と、二人のハシタメをもっていました、その四人の女性たちからヤコブの12氏族12支派が生まれました、ですからその当時いちばん大事なことはイスラエルの国の人をいかにふやすかということが一番大事なことでした、すべての人が当時よかったというわけではなく、アブラハム、イサク、ヤコブのその血統、その流れだけが神様から選民として選ばれていたわけです、その後、神様はモーセに十戒のみ言をさずけました、そのあとカナンに入ってカナン人と戦って自分たちの王国と国土がほしいのでそのようにやったわけです、
そのイスラエルの当時は国民を増やして国土をうちたてるために神の血統を増やして国民をふやしましたが、それで一夫多妻がありましたけれども、今の時代、成約時代において真のお父様は一対一、ひとりの男性、ひとりの女性という形、エデンの園の形、そこまで回復してくださいましたので、私たちは一対一という夫婦関係であります。


(壇上の青年)証がありますので 


(女性)
最初にこれを見たときには、よくわかんなかったけれども、、、今はちょっとわかった気がします、大学に行ったときには、韓国のカープの学舎にはいりました、そこに入った時は、文化的なショックがありました、その人たちはカープの指導者なのに、その指導者たちに言っていることや行動は非原理的でした、その牧会者たちが一生懸命活動しなさいと、、、、それをきいて一生懸命やっていました、原理は本物なのに、この人たちは変なことばかりしているし、私たちもこの人たちといたら変になるかなと、思いながらいろんな悩みがありました、初めて、この宗教についていっていいのかなと考え始めました、大学に入って宗教の授業があったんだけど、そこで幸せと宗教についての講義がありました、幸せと宗教があったら、今は宗教はいらないと思いました、神様に聞きました、考えてみました、すごく、いろいろ考えました、はじめて人生でこんなつらい思いをして悩みがあったんだけれど、初めて自分のお父さんと顔をあわせて会話をしました、今まで自分のお父さんといろんな話をしたことがあるんだけど、今回はい色々深くきいたんだけど、気がついたことがあったんだけど、これはお父さんが私に言っているのじゃなくて、神様がお父さんを通して私にしゃべっていると感じました、ちょっと時間がたてば、それを忘れました、そしたら二回目にもっと大きな悩みがきました、もっと悩みました、なんでこういうことがおきているのか、そういう感じのリアクションでした、そして、何で私にこんな悪いことが起きているのだと、ギャーギャーと言いました、またお父さんに言うと、神様がお父さんを通して言っているとすごく感じました、またなんかつらいことがあって、またそれを忘れました、なんど私にこういうことばかり起こっているのかと思って、すごい、、、、、、そしてまたお父さんと話しました、今回は自分はちゃんとしなければ精神的な病気になると思いました、今回はちゃんと神様につながらなければ、この世界で生きてゆけないと感じました。三回目話したあとに、ほんとうに神様をもう一回つかんで神様にいっぱいお祈りをして、どうやったら神様の摂理のために働けるか、、、、
本当に感謝の気持ちしかなかったです、


 こんなすばらしいお父さんをもらったことを感謝しました、
ほんとうにこういう悩みをする二世も多くて教会からはなれる二世も多いのだけれど、そんな中で神様は自分を最後まで導いてくれたことにたいして、本当に感謝しています、ありがとうございます、


(すこし年上のお姉さんの発言)


 その当時ある二世の子が来て、いろいろあって泣きました、どうして人の前でこんなに泣くんだろうと思いました、いま若いこの子たち(青年たち)の世代の時、私は教会を好きではありませんでした、人生では私はいい人だと思っていました、神様も教会も好きではないけれども、私はいい人だと思っていました、私の父は長い間牧会者としていました、牧会者をして人生を教会のためにささげておりましたけれども、私の家は大変まずしかったのです、そして体の障害のある弟がおりました、正直いうと私は教会を憎んでおりました、人々の前でわたしは口に出して言いませんんでした、私は今ここに来ています、たとえ教会や神様はきらいであっても、私は神様にしたがって行ったわけです、で、私はアメリカに来てイーストガーデンで真のお父様にお目にかかりました、お父様の近くまでゆきました、しばしば、お父様を直接見る機会がありました、お父さまがメシヤであるか、完全な人間であるかということは私にとってどうでもいいことでした、しかし、お父様は私の心にふれました、非常に感動させてくれました、お父様はすばらしい良い方でしたが、お父様の回りに侍っている責任者たちはそういう人ではないと知っていました、今私がここにいるのは私とイエス様との関係、私とお父様との関係のためにここに来ているのです、みんな死ぬときに何かひとつもってゆけるとしたら、それは何だろうかという質問をしました、その兄弟が答えてくれたのは、それは関係だということを言いました、皆さんが今、わかい年齢で教会の中で問題をかかえているということは、それは良いことだと思います、神様はほんとうに私たちを力づけてくだっさっています、神様は今私たちを試みておられます、


(ヨナニム)
 あなた方は、私は聖霊体験をしたことがないと言うかも知れません、聖霊ってなんなの、何ですか、 神様のそういう言葉にふれた時、感動したとき、それは語り始めます、それをきく必要があります、聖霊があなたにふれるわけです、たいへんな、困難な難しい関係をかかえた人がいましたけれども、あえてそこから正しい方向へ行くようになりました、それは私たち人間から来たことではありません、それは聖霊にふれたからそのなったのです、それはお父様が私たちにそのようなことがあるとおっしゃいました、


 クリスチャンたちは色々聖書について知っているのにどうしてそんなに問題があるのでしょうか、教会のリーダーたちはお父様のみ言をそんなにたくさん知っているのに、どうして、そんなに問題が、、、、
 お父様なんていないんじゃないのって、、、若ければ短絡的にそういった結論を出すかもしれません、神様と人間の失敗というものは別に、次元のまったく違うことです、このボトルがクリスチャンだとします、このボトルは悪いと、だからクリスチャンが悪いからといって神様が悪いということにはなりません、私たちはそういう結論を簡単に出してしまいます、簡単に結論をださないために、このような基準が必要なわけです、聖書を読んでください、皆さん聖書をホコリだらけにしないでください、
 このテーマについて語らないといけないですね、事実と真実、事実とは経験からきたものです、私たちは傷つけられることがあります、何もできないと思うことがあります、私は負け犬です、、、
聖書はいいことばかり、すばらしいことばかり書いてありますけれども、私はそんな人間ではありません、これまでのいろんな経験があるから、そのように考えたことがありませんか、それが事実です、そういうものがあなたの心に入ってきます、そういうものだというふうに考えてしまうわけです、あなたの事実、それは真実ではありません、どれだけあなたがお父様は偽者だといったとしても、あなたの経験ではそれが事実かもしれません、 しかし、それは真実ではありません、その二つのことは分けることができません、でも聖書は真実について書いてあります、真理は何でしょうか、神様のみ言葉をとおして、私たちはどうやって一緒になることができるでしょうか、私たちは神様とほんとうの関係をどうしたらもてるのでしょうか、それはおどろくべきことです、もし私たちが、事実だというレベルにどどまっていたら、私たちは真実に到達することはできません、色んな人に私がたすけてあげようと言っても、必要ありませんといいます、そうすればあなたは神様の祝福をうけることができません、だれかをあなたの家に招待したとします、、、しかし、あなたが家に招待した人は家に来てほしくない人です、そういう人をあなたは招待しました、口先だけで招待しました、あなたはそういう口先だけの招待で、家に行きたいですか、来てほしくないと思っているひとですね、、、
どれだけ、あなたが口先だけで愛してるといったとしても、ほんとうにあなたが心の底からきてほしいと思わない限りは、だれも来ないのです、それは、私たちもそうだと思います、
 私たちが本当に、心から神様に来てほしいと思えばそうなると思います、
神様はすべての約束ごとをこの聖書に書いておられます、


“意の部分の討論です”


はじめてください、、、、、(少し時間がすぎて)、、、討論後、、、、


(青年たちステージへあがる) 
 (男性)日本語で話します、いくつか、色んな意見がでてその中で、とりあえず二つを紹介したいと思います、


(ステージ女性発言)
私は聖書を読んで、お父様を感じたいけど、まだ聖書についてちゃんと知らなくて、どうやったら聖書をよんでお父様を感じるかわからない、、


(ステージ男性発言)
いまの意見は僕もおなじでして、今まで聖書とかまったくよんでなくて、でもヒョンジンニムの説教をみて、バイブル(聖書)はすごく大切やと、言われてて、よまなあかんねやと思った、だからこの質問の意味はというと、聖書をよむことでお父様を知ることができるんじゃなかということで、読んでいます、


(他の男性)
 神様に会ったり、神様の声をきくことは、どのような準備が必要なのかを知りたいということです、
ヨナニムが言ってくださったのは神様をもとめること望むことだから準備というのは聖書を読むことによって、それが準備ということになると思います、


(ヨナニム発言)
 大事なことは心で神様をもとめているか、どうかということです、聖書のマスターコースを取るとか、飛行機にのるチケットを準備するとかいうことが大事ではないように、ほんとうに神様をもとめているかということです、わたしたちは羊で神様は羊飼いです、メェメェとなきますけれども羊飼いはその羊の声をきいてやってきます、それで私たちはかなしい声でメェ~~とないています、それを神様はきかれます、私たちは幸せな時にそんな声は出ませんけれども、、、


最後の章です、いつから始められるのか、、、、、いっぱいいろんなことしゃべりました、もうほんとうにたくさんのことしゃべりました、あなたが、そのドアを開けて、出たら、全部わすれてしまいます、ハハハハハハ、、、、、


ゴスペル音楽を聴くということがあります、もしあなたが聖書を読んでいたとしても、あなたが聞く音楽が世俗的なものだったらどうですか、若い人は一日に六時間から十時間いっぱいの音楽をきいているわけです、
ゴスペル音楽を聴くということはあなたの回りの霊界を変えるということです、苦しいとき聖書を開けば、そのときゴスペル音楽を聴くということもお進めします、ゴスペル音楽で人生を変えた人がいます、瞑想して神様の言葉を得る、リマもいいです、聖書を開いて自分が指先で指したところを読みなさいと、、、、
読むのがむずかしい時これが最初の聖書とのふれあいです、こういう難しい時でも、あなた方が、一定の時間やりつづけたら、ほんとうにあなたは変わってゆきます、あなたが一生懸命やったら、語りかけてきます、、ゆびでさしたらたまたま王様の名前がでたりします、それで色々とさがしてみたらいいとおもいます、そこからさがして読んでいけばいいわけです、、、あなたの信仰日記を書いてみてください、あなたが、聖書を開いてリマであなたの指さした聖句を書き出したらいいです、これをやることで、神様との関係が近づいてゆくと思います、


(ヨナニム画面をみて)
一緒に読みましょう、、、、読んでください、、、、サンキュウ ソーマッチ 



(日本通訳の女性のお祈り)


“愛なる天のお父様,今日は午前中から、、ヨナニムの わたしは聖書について何にも知らない、という聖書のお話を聞くことができました、聖書は聖霊によらなければ正しく理解できないといわれております、お父様が霊界に行かれてから、私たちの立場をクリスチャンと同じような立場になってしまいました、ただただお父様の残されたみ言でさとって、そして、お父様を霊的に感じるという立場は、まさしくクリスチャンたちが二千年前たどってきたことと同じようなことでございます、それゆえ私たちは聖書をとおして、イエス様を知り、聖霊を知り、またお父様のみ言をとおして、お父様の生涯をお父様のスピリッツ(霊界)を知ることができます、どうかこれから二世、三世と長く続くあたらしい人類のために、私たちがこの伝統をうち立てて聖書も原理講論も、まごころから読むこと、そして聖霊によって理解を深めてゆくことができるように、そして真のお父様の霊がのぞんで、私たちがみ言の真の形を知り、お父様の価値を知るものとなさしめてくださるようにとせつに願うしだいでございます、この多くのみ言を教えてくださった、あなたの導きに深く感謝申し上げます、そしてイエスキリストの勝利権を相続されて、そして地上で勝利されて、今は霊界にいらっしゃり神様とともに働いてくださる、真のお父様、イエス様に深く感謝申し上げまして、このひとときの場をおえようとしています、また、講義してくださった、ヨナニムの口をとうして天のあなたが語ってくださった、すべてのみ言を忘れることなく、地に落とすことなく、これからも継続してゆきますことができますよう願うしだいでございます、ひとこと、講義を終了にあたりまして、祝福中心家庭 平井かずえの名であなたのみ前にご報告もうし上げます、”



ブログ主


 平井様 通訳ありがとうございます、だいぶ通訳の内容とちがっていましたら、おしらしください。誤字も直してゆきます、ヨナニムすばらしい内容ありがとうございます。聖恩感謝もうしあげます。