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ヨナニムみ言 「わたしは聖書について何にもしりません」より3

(日本の姉妹の発言) 


はっきりわかりませんけれども、たぶん善と悪というのは、神側に立って行いをしているか、サタン側に立った行いか、だから色んな女性と関係をもつことも、神側の血統を残すためにしている行動か、そこがポイントじゃないかと思います、


(ヨナニム)

その当時、アブラハム、イサクは神の意思によっていかに神の血統をふやすかということが重要でした、ヤコブも二人の女性と、二人のハシタメをもっていました、その四人の女性たちからヤコブの12氏族12支派が生まれました、ですからその当時いちばん大事なことはイスラエルの国の人をいかにふやすかということが一番大事なことでした、すべての人が当時よかったというわけではなく、アブラハム、イサク、ヤコブのその血統、その流れだけが神様から選民として選ばれていたわけです、その後、神様はモーセに十戒のみ言をさずけました、そのあとカナンに入ってカナン人と戦って自分たちの王国と国土がほしいのでそのようにやったわけです、

そのイスラエルの当時は国民を増やして国土をうちたてるために神の血統を増やして国民をふやしましたが、それで一夫多妻がありましたけれども、今の時代、成約時代において真のお父様は一対一、ひとりの男性、ひとりの女性という形、エデンの園の形、そこまで回復してくださいましたので、私たちは一対一という夫婦関係であります。


(壇上の青年)証がありますので 


(女性)

最初にこれを見たときには、よくわかんなかったけれども、、、今はちょっとわかった気がします、大学に行ったときには、韓国のカープの学舎にはいりました、そこに入った時は、文化的なショックがありました、その人たちはカープの指導者なのに、その指導者たちに言っていることや行動は非原理的でした、その牧会者たちが一生懸命活動しなさいと、、、、それをきいて一生懸命やっていました、原理は本物なのに、この人たちは変なことばかりしているし、私たちもこの人たちといたら変になるかなと、思いながらいろんな悩みがありました、初めて、この宗教についていっていいのかなと考え始めました、大学に入って宗教の授業があったんだけど、そこで幸せと宗教についての講義がありました、幸せと宗教があったら、今は宗教はいらないと思いました、神様に聞きました、考えてみました、すごく、いろいろ考えました、はじめて人生でこんなつらい思いをして悩みがあったんだけれど、初めて自分のお父さんと顔をあわせて会話をしました、今まで自分のお父さんといろんな話をしたことがあるんだけど、今回はい色々深くきいたんだけど、気がついたことがあったんだけど、これはお父さんが私に言っているのじゃなくて、神様がお父さんを通して私にしゃべっていると感じました、ちょっと時間がたてば、それを忘れました、そしたら二回目にもっと大きな悩みがきました、もっと悩みました、なんでこういうことがおきているのか、そういう感じのリアクションでした、そして、何で私にこんな悪いことが起きているのだと、ギャーギャーと言いました、またお父さんに言うと、神様がお父さんを通して言っているとすごく感じました、またなんかつらいことがあって、またそれを忘れました、なんど私にこういうことばかり起こっているのかと思って、すごい、、、、、、そしてまたお父さんと話しました、今回は自分はちゃんとしなければ精神的な病気になると思いました、今回はちゃんと神様につながらなければ、この世界で生きてゆけないと感じました。三回目話したあとに、ほんとうに神様をもう一回つかんで神様にいっぱいお祈りをして、どうやったら神様の摂理のために働けるか、、、、

本当に感謝の気持ちしかなかったです、


 こんなすばらしいお父さんをもらったことを感謝しました、

ほんとうにこういう悩みをする二世も多くて教会からはなれる二世も多いのだけれど、そんな中で神様は自分を最後まで導いてくれたことにたいして、本当に感謝しています、ありがとうございます、


(すこしお姉さんの女性の発言)


 その当時ある二世の子が来て、いろいろあって泣きました、どうして人の前でこんなに泣くんだろうと思いました、いま若いこの子たち(青年たち)の世代の時、私は教会を好きではありませんでした、人生では私はいい人だと思っていました、神様も教会も好きではないけれども、私はいい人だと思っていました、私の父は長い間牧会者としていました、牧会者をして人生を教会のためにささげておりましたけれども、私の家は大変まずしかったのです、そして体の障害のある弟がおりました、正直いうと私は教会を憎んでおりました、人々の前でわたしは口に出して言いませんんでした、私は今ここに来ています、たとえ教会や神様はきらいであっても、私は神様にしたがって行ったわけです、で、私はアメリカに来てイーストガーデンで真のお父様にお目にかかりました、お父様の近くまでゆきました、しばしば、お父様を直接見る機会がありました、お父さまがメシヤであるか、完全な人間であるかということは私にとってどうでもいいことでした、しかし、お父様は私の心にふれました、非常に感動させてくれました、お父様はすばらしい良い方でしたが、お父様の回りに侍っている責任者たちはそういう人ではないと知っていました、今私がここにいるのは私とイエス様との関係、私とお父様との関係のためにここに来ているのです、みんな死ぬときに何かひとつもってゆけるとしたら、それは何だろうかという質問をしました、その兄弟が答えてくれたのは、それは関係だということを言いました、皆さんが今、わかい年齢で教会の中で問題をかかえているということは、それは良いことだと思います、神様はほんとうに私たちを力づけてくだっさっています、神様は今私たちを試みておられます、


(ヨナニム)

 あなた方は、私は聖霊体験をしたことがないと言うかも知れません、聖霊ってなんなの、何ですか、 神様のそういう言葉にふれた時、感動したとき、それは語り始めます、それをきく必要があります、聖霊があなたにふれるわけです、たいへんな、困難な難しい関係をかかえた人がいましたけれども、あえてそこから正しい方向へ行くようになりました、それは私たち人間から来たことではありません、それは聖霊にふれたからそのなったのです、それはお父様が私たちにそのようなことがあるとおっしゃいました、


 クリスチャンたちは色々聖書について知っているのにどうしてそんなに問題があるのでしょうか、教会のリーダーたちはお父様のみ言をそんなにたくさん知っているのに、どうして、そんなに問題が、、、、

 お父様なんていないんじゃないのって、、、若ければ短絡的にそういった結論を出すかもしれません、神様と人間の失敗というものは別に、次元のまったく違うことです、このボトルがクリスチャンだとします、このボトルは悪いと、だからクリスチャンが悪いからといって神様が悪いということにはなりません、私たちはそういう結論を簡単に出してしまいます、簡単に結論をださないために、このような基準が必要なわけです、聖書を読んでください、皆さん聖書をホコリだらけにしないでください、

 このテーマについて語らないといけないですね、事実と真実、事実とは経験からきたものです、私たちは傷つけられることがあります、何もできないと思うことがあります、私は負け犬です、、、

聖書はいいことばかり、すばらしいことばかり書いてありますけれども、私はそんな人間ではありません、これまでのいろんな経験があるから、そのように考えたことがありませんか、それが事実です、そういうものがあなたの心に入ってきます、そういうものだというふうに考えてしまうわけです、あなたの事実、それは真実ではありません、どれだけあなたがお父様は偽者だといったとしても、あなたの経験ではそれが事実かもしれません、 しかし、それは真実ではありません、その二つのことは分けることができません、でも聖書は真実について書いてあります、真理は何でしょうか、神様のみ言葉をとおして、私たちはどうやって一緒になることができるでしょうか、私たちは神様とほんとうの関係をどうしたらもてるのでしょうか、それはおどろくべきことです、もし私たちが、事実だというレベルにどどまっていたら、私たちは真実に到達することはできません、色んな人に私がたすけてあげようと言っても、必要ありませんといいます、そうすればあなたは神様の祝福をうけることができません、だれかをあなたの家に招待したとします、、、しかし、あなたが家に招待した人は家に来てほしくない人です、そういう人をあなたは招待しました、口先だけで招待しました、あなたはそういう口先だけの招待で、家に行きたいですか、来てほしくないと思っているひとですね、、、

どれだけ、あなたが口先だけで愛してるといったとしても、ほんとうにあなたが心の底からきてほしいと思わない限りは、だれも来ないのです、それは、私たちもそうだと思います、

 私たちが本当に、心から神様に来てほしいと思えばそうなると思います、

神様はすべての約束ごとをこの聖書に書いておられます、


“意の部分の討論です”


はじめてください、、、、、(少し時間がすぎて)、、、討論後、、、、


(青年たちステージへあがる) 

 (男性)日本語で話します、いくつか、色んな意見がでてその中で、とりあえず二つを紹介したいと思います、


(ステージ女性発言)

私は聖書を読んで、お父様を感じたいけど、まだ聖書についてちゃんと知らなくて、どうやったら聖書をよんでお父様を感じるかわからない、、


(ステージ男性発言)

いまの意見は僕もおなじでして、今まで聖書とかまったくよんでなくて、でもヒョンジンニムの説教をみて、バイブル(聖書)はすごく大切やと、言われてて、よまなあかんねやと思った、だからこの質問の意味はというと、聖書をよむことでお父様を知ることができるんじゃなかということで、読んでいます、


(他の男性)

 神様に会ったり、神様の声をきくことは、どのような準備が必要なのかを知りたいということです、

ヨナニムが言ってくださったのは神様をもとめること望むことだから準備というのは聖書を読むことによって、それが準備ということになると思います、


(ヨナニム発言)

 大事なことは心で神様をもとめているか、どうかということです、聖書のマスターコースを取るとか、飛行機にのるチケットを準備するとかいうことが大事ではないように、ほんとうに神様をもとめているかということです、わたしたちは羊で神様は羊飼いです、メェメェとなきますけれども羊飼いはその羊の声をきいてやってきます、それで私たちはかなしい声でメェ~~とないています、それを神様はきかれます、私たちは幸せな時にそんな声は出ませんけれども、、、


最後の章です、いつから始められるのか、、、、、いっぱいいろんなことしゃべりました、もうほんとうにたくさんのことしゃべりました、あなたが、そのドアを開けて、出たら、全部わすれてしまいます、ハハハハハハ、、、、、


ゴスペル音楽を聴くということがあります、もしあなたが聖書を読んでいたとしても、あなたが聞く音楽が世俗的なものだったらどうですか、若い人は一日に六時間から十時間いっぱいの音楽をきいているわけです、

ゴスペル音楽を聴くということはあなたの回りの霊界を変えるということです、苦しいとき聖書を開けば、そのときゴスペル音楽を聴くということもお進めします、ゴスペル音楽で人生を変えた人がいます、瞑想して神様の言葉を得る、リマもいいです、聖書を開いて自分が指先で指したところを読みなさいと、、、、

読むのがむずかしい時これが最初の聖書とのふれあいです、こういう難しい時でも、あなた方が、一定の時間やりつづけたら、ほんとうにあなたは変わってゆきます、あなたが一生懸命やったら、語りかけてきます、、ゆびでさしたらたまたま王様の名前がでたりします、それで色々とさがしてみたらいいとおもいます、そこからさがして読んでいけばいいわけです、、、あなたの信仰日記を書いてみてください、あなたが、聖書を開いてリマであなたの指さした聖句を書き出したらいいです、これをやることで、神様との関係が近づいてゆくと思います、


(ヨナニム画面をみて)

一緒に読みましょう、、、、読んでください、、、、サンキュウ ソーマッチ 


(日本通訳の女性のお祈り)


“愛なる天のお父様,今日は午前中から、、ヨナニムの わたしは聖書について何にも知らない、という聖書のお話を聞くことができました、聖書は聖霊によらなければ正しく理解できないといわれております、お父様が霊界に行かれてから、私たちの立場をクリスチャンと同じような立場になってしまいました、ただただお父様の残されたみ言でさとって、そして、お父様を霊的に感じるという立場は、まさしくクリスチャンたちが二千年前たどってきたことと同じようなことでございます、それゆえ私たちは聖書をとおして、イエス様を知り、聖霊を知り、またお父様のみ言をとおして、お父様の生涯をお父様のスピリッツ(霊界)を知ることができます、どうかこれから二世、三世と長く続くあたらしい人類のために、私たちがこの伝統をうち立てて聖書も原理講論も、まごころから読むこと、そして聖霊によって理解を深めてゆくことができるように、そして真のお父様の霊がのぞんで、私たちがみ言の真の形を知り、お父様の価値を知るものとなさしめてくださるようにとせつに願うしだいでございます、この多くのみ言を教えてくださった、あなたの導きに深く感謝申し上げます、そしてイエスキリストの勝利権を相続されて、そして地上で勝利されて、今は霊界にいらっしゃり神様とともに働いてくださる、真のお父様、イエス様に深く感謝申し上げまして、このひとときの場をおえようとしています、また、講義してくださった、ヨナニムの口をとうして天のあなたが語ってくださった、すべてのみ言を忘れることなく、地に落とすことなく、これからも継続してゆきますことができますよう願うしだいでございます、ひとこと、講義を終了にあたりまして、祝福中心家庭 平井かずえの名であなたのみ前にご報告もうし上げます、”




ブログ主


 平井様 通訳ありがとうございます、だいぶ通訳の内容とちがっていましたら、おしらしください。誤字も直してゆきます、ヨナニムすばらしい内容ありがとうございます。聖恩感謝もうしあげます。