mugimusenからサバイバルへ

サバイバルへリンクします

※ 西郷どんの真実? ※ 

いかに歴史がゆがめられて教育されているか。
そして、グローバリストなどによって大きく影響受けている幕末の士志たち、アベル的な人物なのか?わからないが、

西郷どんが生きていれば、どうなったか歴史は変わっただろうか。。。いずれにせよ間違った歴史をわたしたちは教わってきたというのが事実のようだ。。。
やはり西郷どんは魅力的な人物なのだが、ね、

一説にはキリスト教の影響を受けていたらしいとのことですが。。。。。スパイ説もある。薩摩では、伝説がある、

空海も伝説だらけ、みんな英雄に祭り上げる。なんだかなぁ⁉



上記HPより


(西郷隆盛の生涯)西郷の征韓論・遣韓論



板垣退助誕生地(高知市)


【征韓論の発端】
 岩倉や大久保が洋行し、西郷が政府を預かる間、外交上の大きな問題が浮上してきました。対朝鮮問題、いわゆる「征韓論(せいかんろん)」のことです。
 元来日本と朝鮮は、徳川幕府の時代から親しく交際を続けていた間柄でしたが、幕府がペリーの来航を始めとする諸外国の外圧に屈し、和親条約や通商条約を結んだことにより、日本と朝鮮の関係は悪化し、事実上国交が無くなりました。その頃の朝鮮は、以前の日本がそうであったように外国との交際を一切断ち切り、鎖国政策を取っていたからです。
 しかし、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との国交を復活させようとし、これまで日本と朝鮮の仲介役を務めていた対馬の宗氏を使者として、朝鮮に対して再び交際することを求めましたが、当時の朝鮮政府は、新政府の国書の中に「皇」や「勅」という言葉があることを理由に、国書の受け取りを拒否しました。これらの言葉は朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使用出来るものであり、これまでと文書の形式が違うとの理由で、朝鮮は日本の申し出を断ったのです。
 新政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りましたが、朝鮮政府の態度は変わらず、日本にとって対朝鮮問題は膠着した状態に陥りました。そのことから、政府内には軍隊を派遣して朝鮮と交渉しようとする征韓論の勢いが強くなってきたのです。明治初年には、木戸孝允も熱心に征韓論を主張している事実もあり、対朝鮮問題は外交問題の最優先課題となっていったのです。
 そして、明治六(一八七三)年五月に入ると事態は大きく急変しました。朝鮮の釜山にあった日本公館駐在の外務省職員から、朝鮮政府が日本公館の門将及び小通詞に伝達した伝令書という文書内に、「近ごろ彼人の所為を見るに、無法の国と謂ふ可し」という、日本を侮蔑するような文言が書かれているとの報告があったからです。実はその伝令書は、密貿易を行う日本人の商人に向けた警告文書だったのですが、当時対朝鮮交渉を円滑に進められていなかった外務省は色めき立ちました。
 朝鮮からの報告を受けた外務省は、最早尋常の手段では事態は解決できないと考え、居留民保護のため、陸軍の出動と軍艦の派遣を求める対朝鮮議案を作成し、政府の方針や政策を決定する太政官に対して提出しました。
 こうして、対朝鮮議案は太政官の閣議に諮られることとなったのです。



【西郷の全権大使派遣論】
 対朝鮮議案が評議された閣議において、参議の板垣退助は、


「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然の義務である。速やかに一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判に及ぶべし」


 と言って、朝鮮へ即時派兵することを提案しました。
 しかし、その板垣の提案に対し、当時政府の首班で閣議の中心人物でもあった西郷は、首を横に振り、次のように言いました。


「それは早急に過ぎもす。軍隊を派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣することは止め、位も高く、責任ある全権大使を朝鮮に派遣し、公明正大に朝鮮政府を説くことが一番の良策であると思いもす」


 西郷は板垣の朝鮮即時出兵策に対し、真っ向から反対の意見を述べたのです。
 そんな西郷の主張を聞いた閣議の責任者でもある太政大臣の三条実美は、西郷の主張した全権大使は兵隊を引き連れていくのが良いと付け加えましたが、西郷はそんな三条の提案にも首を横に振りました。


「いいえ、兵隊を引き連れて行くのは、穏やかではありもはん。大使たる者は、烏帽子、直垂を着用し、礼を厚くして、威儀を正して行くべきでごわす」


 西郷の意見に、他の参議らも賛意を示しましたが、肥前佐賀藩出身の大隈重信は異議を唱えました。大隈は、「使節の派遣については国家の重大事であるので、現在洋行している岩倉公の帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張しました。
 しかし、西郷は、


「堂々たる一国の政府が、国家の大事に際して、その是非を決定出来んのじゃったら、今から正門を閉じ、政務一切を取るのを止めた方がよかごわす!」


 と大隈に対して言い返しました。
このように西郷に言われれば、大隈としてももう異議を唱えることは出来ません。
 また、併せて西郷は朝鮮へ派遣する全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しましたが、三条以下の参議たちは、その西郷の申し出に難色を示しました。西郷は新政府の首班であり、そして重鎮です。これまでの朝鮮政府の対応を考えると、使節には大きな危険が伴うものと考えられたからです。
 しかし、西郷は、こじれた朝鮮問題を解決出来るのは自分しかいないと自負し、相当の自信もあったのでしょう。西郷は引き下がらず、結局この日の閣議で結論が出ることはありませんでした。



【西郷が閣議で主張したこととは?】
 明治六(一八七三)年六月から七月の間に開かれた閣議において、西郷は朝鮮への全権大使の派遣を主張し、自らがその任にあたりたいと要望しました。
 しかし、西郷は閣議の席上において、「朝鮮を武力で征伐しよう」や「朝鮮へ軍隊を派遣しよう」などといった過激な主張は一切していません。西郷は朝鮮への使節派遣の重要性を主張したに過ぎないのです。
 「征韓論」という言葉を聞くと、何だか「遮二無二、朝鮮へ戦争をしかける主張」といったような荒々しいイメージを思い浮かべるかもしれませんが、西郷がそういった主張をしたので、学界などから「征韓論者」だとレッテルを貼られているわけではありません。西郷が征韓論者だとされているのは、彼が主張した朝鮮への使節派遣論が、朝鮮に対する武力行使を意図(目的と)したものであった、という点からなのです。
 対朝鮮議案が評議された閣議が開かれて以降、西郷は自らが朝鮮への全権大使に就任することを熱望し、参議の板垣に対して、幾度も手紙を出し、自分の主張を閣議で支持してくれるよう依頼しています。その板垣に宛てた手紙の文面に朝鮮への武力行使に言及した文言が散見されることから、西郷は後世の史家たちから「征韓論者」だと言われていると言えましょう。
 しかしながら、後に西郷と大久保が明治六(一八七三)年十月十四日の閣議において対立したのは、朝鮮に使節を派遣することが妥当であるか否かの問題が主題でした。「征韓論」という言葉のイメージがもたらすような、朝鮮に軍隊を派遣するか否かを論じたものでは決してありません。
西郷は、日本と朝鮮との間で様々な外交問題が生じ、関係がこじれていることから、朝鮮へ軍隊を派遣しようとする意見があるが、朝鮮へ即時派兵するのではなく、先に公然と使節を派遣するのが筋道だと主張し、大久保はその西郷の主張に対して、使節の派遣は朝鮮との軋轢を生んで戦争に繋がり、現在の日本の国情を考えるとそれは得策ではない、と反対したということが事実であり、それ以上それ以下でもないのです。
 また、一般に言われているように、西郷は朝鮮との開戦を目的に自らが使者になりたいと言ったわけでも、戦争を誘発するために使節を派遣したいと主張したわけでもありません。朝鮮への即時の軍隊派遣は道義的にも良くないということを閣議の席において公然と主張したに過ぎないのです。
 その点から言えば、西郷も大久保も共に即時征韓論者ではないと言えるのですが、西郷は使節を派遣すること自体の重要性を強調しましたが、大久保は使節の派遣そのものが戦争を誘発することになると反論し、両者の主張は真っ向から対立しました。
 結局のところ、二人の論点は合っているようで、大きくズレているとも言えます。大久保の主張は、西郷の使節派遣が失敗し、朝鮮との間に大きな軋轢が生じることを前提にしているからです。



【西郷の下野】
 時は少しさかのぼりますが、明治六(一八七三)年八月十七日、西郷の朝鮮への全権大使就任が閣議で正式決定され、その公表は現在洋行中の岩倉具視が帰国してからということになりましたが、岩倉が日本に帰国したことで、事態は西郷の思惑とは異なる方向へと推移していきました。
 帰国した岩倉は、既に帰国していた大久保と木戸を参議に就任させようと画策しました。岩倉は二人を協力させて、西郷の朝鮮派遣を中止させようと考えたのです。
 こうして、明治六(一八七三)年十月十四日、再び対朝鮮問題が閣議で諮られ、西郷と大久保は直接対決したのです。
 そして、前述したとおり、西郷と大久保、両者の意見は真っ向から衝突しました。西郷は、「日本と朝鮮との間でこれまで様々な外交問題が生じ、関係がこじれていることから、朝鮮へ軍隊を派遣しようとする意見があるが、朝鮮へ即時派兵するのではなく、先に公然と使節を派遣するのが筋道だ」と改めて同様の主張を行いましたが、大久保は、「使節の派遣は朝鮮との軋轢を生んで戦争に繋がり、現在の日本の国情を考えると得策ではない」と反論したのです。大久保は西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提にして反対意見を展開し、西郷は安易に戦争をしないためにも大使の派遣が必要だと主張して、両者の主張は平行線を辿りました。
 しかし、最終的には西郷の主張が翌十月十五日に開かれた閣議で認められ、西郷は正式に朝鮮へ派遣する全権大使に任命されることになりました。
 こうして西郷はようやく素志を達成できたわけですが、ここで予想外の出来事が生じました。閣議の結果を天皇に奏上すべき太政大臣の三条が急病で倒れ、勅命によりその代理を務めた岩倉が、閣議での決定を完全に無視し、自らの使節派遣の反対意見を併せて天皇に奏上すると言い出したのです。
 岩倉は、朝鮮使節派遣決定を天皇に対して奏上することを迫った西郷ら参議たちに対し、自らの個人的な意見も併せて奏上すると、西郷らの要求を突っぱねました。両方の意見を奏上するとは言え、奏上者の岩倉自体が使節派遣に反対しているのですから、実質的には反対意見を容れるよう進言することは明らかです。
 このような一種禁じ手とも言える岩倉の不条理なやり方により、閣議で正式に認められたはずの西郷の朝鮮派遣は中止となったのです。
 この「明治六年の政変」と呼ばれる、いわゆる「征韓論」の論争は、大久保を中心とする「内治派(内政優先派)」と西郷を代表とする「外征派(海外出兵派)」との対立であったと一般にされていますが、以上の経緯から考えると、そう簡単に解釈できるものではないと思います。
 なぜならば、内政を優先させるのが第一として西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した内治派の人々は、その後、明治七(一八七四)年に台湾を武力で征伐して中国と事を構え、さらに翌明治八(一八七五)年には、朝鮮の江華島において朝鮮側と武力衝突を引き起こしました。
 つまり、西郷の使節派遣に反対し、内政が優先であると主張した非征韓派と呼ばれた人たちが行ったのは、このような外征(海外派兵)だったのです。この点から考えると、征韓論の論争における「外征派 対 内治派」という対立構図が、いかに欺瞞に満ちたものであったのかが分かるのではないでしょうか。