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ji yea park moon 知鋭様のみ言

☆昨日 文章におこしました、今日の朝、印象深い夢をみました、知鋭ニムのお話は、神様がわたしに語っておられるような気がしました、神様がすぐそばにいてくださっているのだということを、わすれて、不安な心や、自信のない自分がよくいます、なんども読んで実践して行こうとおもいました、(エルダーさん通訳何時もありがとうございます。)

(ブログ主)



 みなさんお腹すいてないですか、わたしは不足な点が多いのですけれども、ヒョンジンニムに従いながら多くのことを学んでいます、証をする中で特に去年の秋にお父様が語ってくださったみ言について、皆さんに語りたいと思います。


ペンシルベニアに来て三年になろうとしていますけれども、当初は本当に混乱した時期でした。

 その当時私は自分が努力して肯定的にみつめようとしました、私は真のお父様を直接見ましたし、また、ヒョンジンニム、国進ニムが間違ったことをしたのではないということを自分の目で確認することができたし、またお二人が自分の責任から逃れようとしたのではなかったということを見ましたし、


 当初はその当時は非常に混乱した、困難の時期だったのですけれども、これを私はできるだけ肯定的に見つめようとしました、今から考えると当時のその混乱をなるべく感謝しながら見つめようとしたのですけれども、私としては大変難しい時期でした、その当時の不安定な状態を国進ニムはごらんになっていたので私よりもそれはよく知っておられるはずです、


 ある日は新年を迎えながら、自分としてその年の、もっとうを決めないといけないと思うようになりました、その自分で決めた、もっとうというのは自分の心の中の本心を決めて、そしてお父様に向かって走ろう、、、、ただ行くんではなくて走って行こうということでした、そうやって生きよう、そのように生きようとするんだけど、、、一日一日過ごしながら、なにしろ、子女様が七人なんですね、そういう面で、精神的に物理的にいろんなことにぶつかりながら、生きていました、生活していました、


 私も普通、条件をたててよく祈るほうなんですが、けれどもその当時はそのようにして精誠をたてるとむしろ私が疲れてしまうのではないか、疲労してしまうのではないか、倒れるのじゃないかと、思ってむしろ現実に目をむけて、精誠をたてる事を一旦延ばしました。


 私は実は子供のころ九歳のころから精誠をたてて色んなことがあった、ということはあるのですが、それはまた機会があればお話しますけれども、とにかく、その三年前の混乱した状態では精誠をたてることもできない、祈ることもできない状況でした、ある日ヒョンジンニムを中心にリーダーの何人かが、会議をする場面がありました、ヒョンジンニムが言われたんですね、“ここにこのミーティングに参加する人は毎朝一緒に訓読会をしましょう、、、、”ということでした、


 私はその当時末の子が二歳だったので、この子が学校に入ったら、私がある程度時間が持てるようになってその時になったら精誠をたてよう、というふうに考えていたんです、ところがヒョンジンニムがそのように言われるので、それも神様のみ旨なんだなあと考えましたミーティングには参加するけれども訓読会はできませんとは言えませんですしね、、、、これはお父様がこれ以上のばさないで今すぐ訓読会をはじめなさいと言われているのだなあと感じました、


 ある日訓読会が終わって、個人的にお祈りをして、そしてお父様のお写真をずっと見つめていたのですけれども、お父様がいわれるのです、“あなたはわたしに走ってくる必要はないんだ”と、“どうして私と共に居るということがわからないのか”“私はあなたの横にいるんだ”と、“そばに居るんだ”と、そのとき私は目がパッチリ開きました、、ああそうなんだ、、どうして私はこういうふうに考えることができなかっただろうか、そして喜んで食事のときに国進ニムに話したら、国進ニムは“そうなんだ”と“あなたがオンマがそれは正しく見たんだ、正しく解ったんだ”と言ってくださいました、


 どうやってお父様に侍るかと思うときに、私たちは生活する中に、お父様はいつも私のそばにいらっしゃるんだと思うと、ここにいらっしゃるんだと思うと、私たちの態度とか、行動が全部変わってくるのではないでしょうか、

 神様お父様をただ信じるということと、ヒョンジンニムがよく言われるように、“関係を持つ”ということと、“ relationship” を持つということは天地の差だと思います、ある人はお父様がすぐここにいらっしゃると思うと凍ってしまって何もできないかもしれないと、いうかもしれません、しかし、考えてみると、何時も神様とともに居るということは、むしろ自由な生活です、それがいわゆる神様の創造理想、創造目的ではないですか、


 私たちはこれまでサタン圏に住んでいたので、その感覚を忘れているんですね、それをこれから練習してゆく必要があると思います、最初はわたしも大変でした、疲れました、

お父様に侍って生活しないといけないと思うんだけれどもある瞬間、お父様が何処かへ行って、自己中心的に、また言葉も自己中心的に言ってしまう、今も行ったりきたりしています、訓読会の時にもお祈りをしながら、“お父様を今日も何回か見失いました”というふうに悔い改めの祈祷をします、


 でも“毎朝のリマ”によってまた、私を掴んでくださいます、私が選ぶリマというのは、“神様とともに生活しなさい、その必要がある、”そういうような内容のリマが継続して出てくるんですね、私がいちいち探すのではなくて、開いてみるとそういう内容なんです、これは幾つかあります、その訓読会に参加する人が、この横にいますけれども、その中の幾つかを皆さんに読んで差し上げたいと思います、重生するならば、新郎であるイエス様の愛と新婦である聖霊の愛がひとつになった愛が、私の骨と肉とひとつにならなければいけない、“すなわち私があなたの中にいて、あなたが私の中にいるであろう”というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が出来上がる前は、キリスト教でいう復活はありえない、すべての宗教では、見るものを勝手に見ないで、聞くことを勝手に聞かないで、言うこととか、相対するものを勝手にしないように教える、見ることも聞くことも、話すことも、また感じることも、愛することも、神様を中心にしないといけない、自分を中心として、そうしてはいけないと言う事です、


 神様は観念的な神様ではありません、抽象的な神様ではありません、生活的な主体性を持って、何時も私たちの生活の主人として、ともに居られるのです、ですから私たちが侍るのを受けるだけの存在ではありません、共通の愛を中心として、共通の生活をしておられる神様なのです、、、お父さまもそれは夢のような話ですね、とおっしゃいました、つまりサタン圏にいる私たちにとって夢のような話ですね、 でも私たちはそれができるのです、そうでしょ、、


 神様の息子であり娘であるので、それを練習しないといけないのです、侍る生活をしなければならない私たちです、私たちが願う天国には出会ったけれども、私たちが侍り実践できる天国にはまだ出会うことができませんでした、すなわち生活的な面において、主体的な神様を知ることはできませんでした、神様がいくら高いといても、神様を私たちが愛の心で、わたしたちが呼べば、すぐに神様が私たちの心の中で答えて下さる、神様どこにいらっしゃるんですか、と聞くと、それはあなたのそばにいるんだと言うふうに答えて下さいました、神様が本来わたしたちの根本です、心の根本におられるのです、、、、、、


長くなるので、、、、、、


 こういうリマを私が受けたんです、不思議でしょ、、 私たちが実践すれば、お父さまは私たちのそばにおられ、見守ってくださるのですが、私たちがお父さまを除外してしまうんです、そのようにして、家庭連合が今お父さまから離れてゆく、お父様を切り離してしまう、そのような状態を見るとほんとうに心が痛いです、にもかかわらず、お父さまは放棄しないで、私たちがすこしでもお父さまの方向へ行こうとすると、すぐに私たちの横に、そばに現れてくださり、見守ってくださる、、、、そういうことを思いながら私たちはこれからも実践して行きたいと思います、みなさんんもお父さまの権威にもどる祝福をうけられたのですけれども、、、、わたしのもっとうは毎日、毎時間、毎分、すべての一分一秒、お父さまに侍って生きて行こうというのが、今年のもっとうです、このようにしてお父さまに侍って行きましょう。



              “カンサハムニダ”