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ブログ。。審判時代の心構えを読んで。。。

 堀教会長のブログをよんで、考えました。。。私達は地獄を見てきた経験がありません、少なくとも戦後生まれです。
戦争のことをあまり語らなかった、父や叔父、祖父、この平和時代の日本に生まれてきました。現実の地獄を経験したことがありません。。。
広島、長崎の原爆を経験したこともありません。。。。


これから現実となる 艱難の時代 自分のまわりにおこる現実にわたしたちの心は耐えられるだろうか、また冷静な自分でいられるだろうか、冷静な自分ではいられないはずです、なにもかも失った人間が生きる意味を見出せるのだろうか、ヨブのように生まれてきた事そのものを呪うでしょう。。。


これがこれからの艱難の時代。。。生きるも死ぬも。。これからの時代を経験しなければいけない運命の時代に生まれて来ました。生まれてきたことそのものを呪ったヨブ 


私達はお父様に出会い、霊界の強烈なプッシュで今日まで来ました、そして地上の二代王様、霊界の真のお父様との縁を取り戻しました、そのような立場ですが。。。


これからの艱難を経験しなければなりません、地上で生き残るも霊界に召されるもゆだねるわたしたちです。こころも肉体も絶望の中で信仰をもって乗り越えることができるでしょうか、信仰者であったヨブも神をのろいました。。。


私自身がどうあれ、七年の大審判を経なければ 神の王国は天地に現れることができません。。。これは人類歴史におこらざる得ないことであります。。。。

堀教会長のブログ をぜひ 通読ください。。。。ほんとうに深刻な内容です。。。。



お父様のみ言 七年の大艱難を いまいちど掲載します。。。
お父様の私達に対する計り知れない愛の心情があふれます。


動揺することなく このようなときも。。。
神様はわたしたちを訪ねてくださいます。。。。
真のお父さまは偉大です。ほんとうにメシアです。。。
真のお父さまが地獄を越えてこられ勝利した人であることがわかります。
ほんとうに涙があふれます。。。このようなお方に出会った私達はどんなにしあわせでしょうか。。。 二代王様勝利 国進様勝利 マンセイ。。。。



≪七年の大患難≫のみ言葉

患難のなか忠節の心情を持った真の息子と娘

1961年2月12日『文鮮明先生み言選集第十一巻』


神様は終わりの日になれば、人類の前に7年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は6000年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。


人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。御旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。

そのような時が、終わりの日の7年大患難の時です。その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。

では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。神様は6000年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。

そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。 それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。
 頼り、信じていた世の中の全てが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。
神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。


神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。
そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。 ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。


この国が乱れると気落ちしないでください。神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。

天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で天の父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。


地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、天の父と共に参与する立場に立って天の父の苦痛を私が思いやって、その天の父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。

今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。私たちは天の父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される天の父に侍らなければなりません。その天の父を私の天の父と知り、その天の父の事情を私の事情として、その天の父の心情を私の心情として、その天の父の願いを私の願いとして訪ねてこられる天の父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。

どのような塗炭の苦しみと艱難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ天の父の息子であり、またその天の父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。