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ヨナニムみ言 「わたしは聖書について何にもしりません」より2

 聖書というのはすべて神様との直接の関係について書かれております、聖書を勉強するべきだと思いませんか、これが聖書を勉強するとてもいい理由だとおもいませんか、若者たちがどうやって信仰の道にゆくことができるのかということを、ヒョンジンニムはかたっておられます、 

 真のお父様を理解する、三つの段階、

神の実在を知ること、

 このことをちょっと知らせてみたいと思います、ほんとうにあなたは実際に神様を信じていますか、こころのなかにほんとうに正直にたずねてください、ほんとうに神様を信じていますか、そうでないといけない、なんかそうだよな、、、そんな感じですか、唯心論と無神論の討論のときにこの内容はとても役に立ち内容です、これは第一歩ですけれども、第三段階は原理講論とお父様を勉強するということです、わたしたちはキリストに対する信仰生活を持ってゆくわけです、信仰生活ということ、これはほかの人に見せるための信仰生活ではありません、これは本当の関係です、聖書というのはほんとうに大きなテーマですね、数時間では聖書の内容を網羅するのはむずかしいとおもいます、この内容を今日は持ってきました、今日は聖書の内容、成り立ちについて述べたいとおもいます、知的なラインですね、内的なみ旨という観点においてですね、内的な心情的なレベルにおいてのことですね、神様は知、情、意の三つをもっておられます、

今日は四時におきたので、ねむたいですか、、、、そういう時間ですか、最初に知的な部分を話、三つのグループにわけてゆきます、そしてディスカッションして、ここで発表するというわけです、知、情、意、三回ディスカッションして、ここで発表するということです、日本のお姉さんが訳してくださったので、この紙には英語と日本語で聖書の成り立ちが書いてあります、聖書を勉強するときにある、三つの障害物について、たくさんあるのですが、三つに分けて分類しました、知的な面においての障害物、聖書は人間の言葉なのにどうして、神のことばなのか、という疑問があります、知的な理屈っぽい話ですね、たくさんの翻訳の、ジェームスオー版とか版が有るわけですね、歴史をとうして聖書を探ろうとしているんじゃないか、というのがあります、歴史をとうして聖書を勉強した、ユダヤ人は偉大だというのがあります、聖書をとうして、イエス様は偉大だとか、しかし六千年前だれがそんなこと知っていますか、四世紀の時にローマ帝国のときにかかれたものです、その場合イエス様と関係ないそのあとの話です、じゃあその四百年のあいだ何が起こったのでしょうか、その四百年のあいだ、たくさんの歴史的資料というのもがありますから、質問にこたえられるとおもいます、そういうことがあるから聖書は疑問だらけなんだよね、、、、ということになります、今のことについて少しだけの疑問がでてきますか、ほんとうにこれはいろいろ考えなければならない疑問であります、聖書を勉強すればそのようなこと、簡単に答えがでてきます、

 次は意の世界です、聖書を読むと、いつも挫折して不可能だわ、ということになります、ああなんてことだ、とってもたいくつだということがあります、字ばっかりで、絵がないじゃない!、、、言葉ばっかりです、こんな本なんか読みたくない、、、読む気がしない!、、、聖書を読むんだけど、何の意味だかさっぱりわかりません、すぐ眠くなります、だれか言ってましたよ、自分が夜ねむりにつけないとき聖書をよめばほんとうにすぐにころっとねむりにつけます、、、、

 意の世界ですけれども、これは意思の欠如ということです、聖書を読むことにおける障害物のひとつです、心情的な世界における障害です、心情的な問題でお父様は十字架をおろせといわれていますけれども、聖書の中にはいたるところに十字架についてかいてあります、だから自分はそれは受け入れられないという気持ちがあります、十字架を見たときにそんなに気持ちがいいわけではありません、なにかイエス様についていわれてますか、四人の聖人の中でイエス様は一番位の高い人といわれてますか、聖書の中にお父様がいっておられるのは、ひとびとが苦労して、ほんとうにこう生きないといけない、アア生きないといけないそして、十字架をせおって苦労しなければならないというみ言葉がありますが、それは全部聖書からきています、だからこのことについて考えなければいけない、イエス様は霊的救いのみを成し遂げた方であります、そして真のお父様は肉的救いまでも成し遂げた方でありますから、お父様のほうがバージョンとしては五とか六とか高いわけです、ですから、バージョンのひくい三くらいの聖書をなぜ読まなければいけないの、という気持ちがあります、もしイエス様が霊的救いの基台をつくらなかったら、お父様の肉的救いの基台もなかったわけです、聖書には女性について低くする話がいっぱいあるわけです、ベールをかぶれとか、片隅にいっていろとか、教会の指導者にはなれないというマイナス的な話がいっぱい出てくるわけです、これはもう感情的な側面のことが書いてあります、男性は男性で本当に正しいのだ、男はこうなのだという話があります、どうしてそうなのですか、聖書というのはほんとうに貞操感のつよい女性のことが書いてある本です、聖書が男性についてばかりではなく、女性についても書いてあります、聖書には女性は男性によって作られた、女性はそれ以下であると、かいてあります、神様はイブをアダムに紹介したとき、アダムはこういいました、これは私の骨の骨わたしの肉の肉である、彼女は女とよばれるであろう、パウロはエペソ教会とコリント教会についてのべています、パウロはローマ書の手紙で女性のリーダー、コナンという女性の教会指導者リーダーを高く評価しています、この世に戦争とか悲惨なことがあるので、もう神がいないのではないかという感情的な考えがあります、

 この知的な面での障害物、そして意的な面での障害物、そして情的なすべての面での障害物がわたしたちの頭の中でぐるぐる回っています、こういう大きな問題がわたしたちの頭のなかでのしかかることで、わたしたちは聖書から一歩二歩、三歩とどんどん引いて離れてゆくわけです、そして本当に聖書を読もうとならないわけです、わたしたちはもう聖書をみることができないわけなのです、聖書が遠ざかって聖書が黒い点みたいになっているわけです、いま話した内容はわたしが、かってその様な状態にあったというわけです、


 今出てきたような、疑問質問障害がいっぱいありました、わたしがかって傲慢だったからです、で福音はわたしを変えました、そしてお父様をもっと、深く愛するようになりました、でこのような疑問があなたの心に浮かんだら、ほかの疑問もいっぱい浮かんでくるでしょう、神様にたずねてみてください、確実なことをあなたにお話したいと思います、あなたが真剣に尋ねるなら、もしほんとうに尋ねるならその答えが来るはずです、あなたに答えを与えてくれるでしょう、その答えがいまではなくても、必ず答えがくるはずです、それは神様が与えてくださるタイミング、時であります、ここにいる皆さんよりも20歳以上としうえです、だからそういってあなた方にいうことができるわけです、わたしの人生で疑問におもったことがたくさんありますが、神様は答えをあたえてくださいました、わたしはその疑問に対してそれは絶対不可能だとおもいました、しかしそんな難しい問題に対しても神様は答えをくださいました、ほんとうに年上の信仰深い姉妹たちに尋ねてください、信仰のある人たちに尋ねてみてください、おなじようなことをいうでしょう、聖書は読んでそんなに難しいのでしょうか、これは天からあなたの前に落ちてきた、単なる本ではありません、文化的な背景があるというわけです、地理的な背景があるというわけです、フランスで起きたことではありません、日本の真ん中で起きたことではありません、これは中東のエルサレムのあたりで起きた出来事です、聖書を読むときにその当時の地理が頭に入っていなければなりません、どうしてヨルダン川を渡ったのか、どうして紅海を渡ったのか、ということは聖書を見ればそのことがわかるわけです、ヨナが神様の命令から離れて逃げていったとき、かれはタルソスという町に逃げました、地の果てみたいなところに逃げたわけです、その地図でみればとってもおもしろいのですが、こころのそこで、かれは地の果てまで逃げたと思っていたわけなんですが、で地図をみればもっといろんなことがわかるわけです、当時の政治的な背景状況もわかります、イスラエルは本当に小さな国です、イスラエルとは、本当に小さな国なのに、周りにはエジプトがある、シリアがある、そして、ギリシャがある、ローマ帝国がある、小さな国が強大な国にとりかこまれている、なのでこの信仰をたもたなければいけないような状況になっている、その政治的背景が分からなければなぜこのようなことをいっているのだろうと分からないとおもいます、理解しにくい内容があります、聖書に対して予備知識がないがゆえにもっと理解が難しいのです、だから聖書を勉強するときはもっと深い内容を知ろうと決意して始めないといけないのです、この三つのことをよく考慮して勉強しないといけないです。聖書というと、あれをやった、これをやったと、とっても退屈な書物だとおもいます、もしそこに基準がなかったら、、、(前の女性を見て)ともはさんに、あなたはどうして神様を信じるの、とききます、、、わたしは交通事故にあって、死にそうになったところ、光り輝く天使があらわれて、すくわれたので、わたしは神様を信じるようになりました、、、、、という話があります、(前の男性を見て)よしひろさん、どうして神様を信じるのですか、何にもしてくれないのに、どうして神様を信じるのですか、わたしの両親をみて彼らほど献身的な人を見たことがないから、神様を信じます、、、両親をみたら神様みたいなので、だからわたしは神様を信じます、、、そういうかもしれないですね、、、いろんな神にいたるみちをたくさん議論したりします、神様の法は神様の神聖が拡大したものであるとヒョンジンニムがおっしゃいましたね、神様はその単語をつかっておられません、ことばはつかわないですが、そういう人をつかっています、神様はどういうものが好きだということが分かる言葉があります、聖書をよむといろんな道があって、この道が自分と神様がコミニュケーションする、道だということがわかります、聖霊をとおして信仰を持つということ、聖書を完全に理解するのは聖霊をとうしてしか理解できません、完全に理解するには聖霊をとうしてしかないというわけです、今おとう様は肉体がないので聖霊のようです、おとう様は私たちとともに生きておられます、真のお父様のその協助によって、わたしたちはお父様のみ言葉を完全に理解できます、 ヨナ様が聖書を読まなければいけないっと、、いった、だからみんな聖書を読み始めよう、、、、!

 創世記Ⅰとか、、、  創世記二章からとても難しくなります、 創世記から、そして黙示録にいたるまで、マタイによる福音書、むずかしいから読み終えないのですね、涙だけでてきます、できないできない、どうしたらいいの、、、、ヨナ様は特別な 人だから読めるけどわたしは読めないわ、、、とおもいます、それほんとうじゃないですね、聖書の基本的なつくりはどうなっているのかというとですね、聖書は全部で66巻あります、そして旧約聖書が39巻あります、新約聖書が27巻あります、そして何人か作者がいますし、トータルで40人くらいのひとがいます、聖霊によって感化をうけて書かれたといわれています、39巻の旧約聖書の本の中で、17が歴史書です、5が文学作品、17が予言書です、最初に歴史書、次に文学、そして予言書がでてきます、聖書39巻のなかのですね、ヒストリーです、これが歴史的、政治的、5つの文学書というのは、詩編とか雅歌とか文学的内容が書いてあります、そして17が将来どんなことがあるとか、神様の予言が書いてあります、新約聖書は27巻から出来上がっています、四つの福音書があります、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、これは同じイエス様の生涯を書いた作品でありますけれども、四人の作者が自分たちの観点で書いた福音書です、ヨハネによる福音書を最初に読むことをおすすめします、それはいろんなおもしろいはなし、いろんなことを書いてあるので、それが最初に読むのにいいと思います、この四つがひとつになっています、歴史書がひとつあります、使徒行伝です、イエス様が十字架について、四十日後、弟子たちがどのように動いたかというのが使徒行伝です、歴史です、22の弟子たち使徒たちの手紙があります、愛とは何かということについて書いてあるのがこの手紙の中に入っています、歴史がこのようになっております、もし聖書よむなら、歴史を読んでくださいね、予言の最後から、使徒行伝にいたるまでに、400年の期間がありますこれをみると、聖書の中で、歴史がどのように進んでいったかということがわかります、歴史の順番どおり書いているわけではありません、本当にとんだりしています、歴代史ですね、列王記があります、そのあとに歴代史があります、列王記の最後にイスラエルが滅びるとあります、その後歴代史がつぎの回にでてきますが、この歴代史の最初ががアダムとイブの話がでいてきます、国が滅んだのに、またこれがでてきますので、頭が混乱します、順番どうりにゆくとそういうことがあるわけです、


みなさんディスカッション、討論の時間です


プリント見たください第一の質問があります、だれか最初の質問を読んでいただけますか、 一、、、、、、、キャンディ食べないでください、、、、キャンディで同じグループ作ってください、、、、、一組ずつすわってください、今知的な部門においての質問を受けています、、、自由に形を作ってください、、、グループ一番です、まず質問よんで、どんな質問があがったかを、、、聖書について、誰が直接的に書いたかという質問があります、質問、旧約聖書のなかに、、、エリコ城をぐるぐるまわって、陥落させたというはなしがあります、そして、、そのなかでラハブという女性が ヨシュアとカレブをたすけて、その家だけが助かって残ったという話がありますが、実際の最近の考古学でほってみたら、そこにほんとうにひとつだけ残った家があったわけです、それで神様を知らない考古学者がこれはいったいなんだろうと、いまそれがほんとうにあったのだということがわかる時代になりました
 四つの福音書は百年以内にかかれています、四世紀に聖書が成立したという話がありますが、それは間違いです、最初のころからイエス様に関する福音書は伝記のようなものが書かれていて、その四つの伝記以外にマリアによる福音書とかさまざまな17くらいの福音書があったわけです、


(姉妹) なぜ聖書を勉強するのかという質問です


ヨナニム:それはひとつの方法です。


(姉妹):わたしはイエス様について会ったことがないのに、、、


(ヨナニム)

 今いきている私たちの世代はとても幸福な世代です、生きていて、お父様に肉的にも霊的にも出会うことができました、しかし、私たち以降のお父様と一度も会ったことのない人の世代はどうでしょうか、イエス様に会ったこともないのに信仰を持ち続けてきたクリスチャンと同じように、ただ、み言をとうして聖霊の役事をとうしてしかイエス様のことも、真理であるということは理解できないのです、だからお父様が聖和された以降においては、私たちシックの立場というのは、非常にクリスチャンたちとよく似ています、ですから聖書を勉強していかに霊的に理解しながらみ言を勉強するか、、、、 聖霊にはたらく霊もお父様の霊であるわけです、だからクリスチャンのそういう内容を学ばなければいけないと思います、
 この教会の二世は、、、、一世はお父様に対する理解もあるし、み言をよんで理解もありますが、二世に関しては聖書もよまないし、お父様のことを見ても気違いだと思ったりします、ですからお父様が絶対従順というと、二世はかっと、首を絞められて、くるしいと、そして純潔を守りなさいと言われたら、友達はみんな堕落しているのになんで私だけ純潔を守っているのといって、非常に戦いくるしむわけです、ですからそういう状況の中にあって、今わたしたちはこういう勉強をしなければいけないわけです、“アダムとエバはほんとうにいたのだろうか


“答えがある人はどうぞ” 

 旧約聖書の最初の方には、創世記、申命記、レビ記、、、の五つがあります、これはモーセが書いたといわれておりますけれども、ほんとうにモーセが書いたと思えますか、そういうふうに、みんな思っているわけです、とくにアダムとエバの話が創世記の最初の方にそれが書いてあるので、大昔のことなので、ほんとうにモーセが書いた本なのか、内容は正しいのかと、みんなうたがっているわけです、創造論が正しいのか、進化論が正しいのかという問題があります、
人間が本当に神様かれ作られたものなのか、それとも、偶然がかさなってできたものなのか、つねに、創造論と進化論という戦いがあります、モーセの書いた聖書の内容がほんとうなのかどうなのかという問題なのですが、モーセという人はそれまでのことの資料をあつめて書いたのではないかと、 モーセ時代粘土板に書く技術が進んでいたので書いたのではないかと言われています、最初のユダヤ五書はユダヤのいろんな資料を集めて書いたと言われています、イエス様は、わたしはアブラハムの前からいるのであると、聖句にあります、アブラハムというのはモーセよりも前の時代の人ですね、アブラハム、イサク、ヤコブ、、そのヤコブの子孫にモーセが出てくるわけです、ですからイエス様というのはアダムであり、後につづくモーセとかダビデとかそういう歴史上に現われた信仰深い人々が同じように、聖霊がやどった人たちが現われて、その人たちがイエス様のような活躍をして、出来上がってきているものですから、聖霊がやどってモーセが書いたものであると理解されます、進化論とか創造論かということになるのですが、最初の人間がいたことは確かで、その子孫がモーセであったわけです、そしてモーセからずっと先祖にさかのぼってアダム、エバに行くことはたしかなのです、そして何が大事かというとアダム、エバと神様がつながっていたという、神とのつながりが大事だということです、


 わたしの説明でわからないと思うかもしれません、それでもいいです。
聖書を学べば学ぶほどその深さがわかってくると思います、ほんとうに、わたしが言うというよりも聖霊が働いているわけです。


第二の質問に答えていただきたいと思います、


 情的な面において、聖書の勉強がどんなものであるのか
聖書の勉強をして、ここにはエレミヤの書があると、予言の書があると、いろいろやってゆくうちに、わからなくなってゆくのですけれども、それでいいのだろうか、と、これでほんとうにわかっているのだろうかという気持ちがでてきます、ここにある聖書のチャートを覚えたとしてもあなたは満足できますか、 

 神様を心で感じないと満足できないでしょう、
ヘンダー・カビンという人が神と出会って書いた本です、どうやって神と出合うのでしょうか、みんな、そういった証、経験を持ちたいでしょう?
 これはあるひとつ典型的な流れです、出会うかたちです、わたしたちは気がついてないのだけれど、いっぱいあるわけです、そういうものがいっぱいあります、人がそこに歩いていますけれども、神様はあなたと際限なく関係を持ちたいと思っていること、それはほんとうのことです、その関係、愛の関係は個人的なことです、 神は愛だと感じたことがありますか、神は愛だと信じていますか、どうやってそれがわかるんですか、神様は審判の神様ではないのですか、神は時には苦痛を与えます、神様はヨブに対して死ぬようなめに会わせました、自分の兄弟で障害がある兄弟がいます、彼の人生というものは、本当に刺激的なものがあります、


 むすこが五人いる人のお父さんにあいましたが、ヘリコプター事故でそのとき死んで即死でてしまいました。そのお父さんは電気技師でした、その事故がおきたその場所で死んだわけです、そんな人生をみて神は愛だと思いますか、


 私の兄弟に障害者がいますが、ある人がてをとって、“神は愛ですよ”と言いましたが、本当にそのように思いますか、受けとめられますか、本当に神様が愛だと確信できますか、確かですか、神様は愛だと。。。“私はそうはいえません”
神は愛だということについて、ヒョンジンニムは今朝おもしろいことを言われました、神様はほんとうに泣かせるような試練を与えられます、そうすると神様助けてくださいといいます、そうすると神様は私をもっと泣かせます、それが愛です、わたしはむかし神が愛だとを理解することがほんとうにむずかしかったのです、どうであれ神様は愛です、そんなに苦労したわけではありませんが、私の人生の小さな経験からしても神は愛だと思います、苦しみを通過する中でも、この荒野で生活する中でも、神は愛だと私は言えます、この答えがほんとうに葛藤するかも知れませんが、この言葉であなたがたが、葛藤を覚えるなら、私は神にしたがって理解するように、神に従います、私は今神に従っているとこころです、いっしょに神様に従ってゆきましょう、神様がいたみや、苦しみをたとえ与えたとしてみ、神様はずっと愛の関係を求め続けています、モーセはエジプトから追放されました、彼はほとんど殺されそうになりました、

 でもその最後にかれは神は愛だとさとりました、
次は神様はあなたに、神さまのみ旨に参加してほしいと願っております、神様は愛しておられるだけじゃなくて、一緒にみ旨がやりたいと思っておられます、どうやって神さまは私たちに語りかけられるのでしょうか、神さまはわたしたちに、聖霊を通して、祈りを通して、環境を通して、教会をとおして、また自分を通して、それが神さまにいたるための路程であるわけです、神さまが私たちを、自分の方へ引き寄せて、引き寄せるだけではなく、話がしたいわけです、そして、導きたいわけです、神様がモーセを燃えるシバを通して導かれました、そこで、神さまに出会いました、


第五は葛藤がおきると言うことです


 神さまは信仰を通して導かれようとしているわけですが、そこに色んな危機があるわけです、自分の力では何もできないという、色んな試練がくるわけです、そしてついに私自身ではどうにもできないというわけです、 ヘブル人がエジプト人に支配されていた時のように、彼らは何とか、エジプトで奴隷であることから逃れようとしました、そして彼らは途中で金の神さまを拝んで、そういう別の神様をおがんで、、、神さま私を助けてください、私はもう自分では何もできませんという危機におちいりました、だから神様は信仰と行動というものを要求されます、そこで変えようとします、モーセはミデアンで生活をしていましたが、妻と子供がいて結構快適な生活をしていました、ところが神が一変、エジプトに戻って自分の民を解放しろと言われました、しかし、その時モーセは自分はそんなことはとってもできませんといいました、モーセは快適な生活から変えて、すべてゆだねて変えてゆくわけです、そして彼は従順になって変えてゆくわけです、彼だって逃げることはできました、でもかれは神様を信じていたから、そうしなかったわけです、で、奇跡を見せました、かれは従順にしたがったので、最後は神様に出会いました、わたしはこういう方法が型にはまった、神様に出会う方法だとは言っていません、これは神様とどう出会うかということのひとつの例です、
 最初にみなさんは、こういうふうな路程を通過したりします、みなさんサンクチュアリー教会へ行ったということで、こういう経験をしたのではないでしょうか、こういう典型的な神様を経過した人それを発表してください、もう一度グループを作りなおします、

 
“ヨナニム日本語で“ “みんな、寝ているのじゃないですね、ははははは、、、”


グループで討論会中、、、、、


 (姉妹からの質問) 

 旧約聖書のヤコブのところにありますけれでも、ヤコブは中心人物なのですけれども、奥さんがいて、愛人がいて、一夫多妻をやっていますけれども、どうしてそういうものが、、、又、現在でもそういうものが、ほんとうに悪いことだと思っているのになんで、神様の復帰摂理では、私たちの倫理では悪いことと思えるような人たちが、中心人物として立って、神様が善としてやっているのかということ、、、、


ブログ主 誤字とか、読みにくいのを少しずつなおします、とりあえず掲載してますすみません、、、、



次回につづく