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真のお父様を証できなかった生前のマザーテレサ



生前マザーテレサは、“”文先生に注目していなさい、もしかしたらあの方が再臨主かもしれない“” と語られたことがありました、そしてそのときインドで側近だった人(名前は忘れました)がUCに伝道されてきました。


 自分が特別な立場であり夜の神様からお生まれになられたことは、すでに幼少のころより、知っておられたとのことを、お父様の御親族の方の証によりきいたことがあります。


 そして16歳の時イエス様の具体的な願いを知って、その願いを受ける決意をされました、イエス様はいつこの文先生がその過酷さゆえ、断念するか心配でいつも一緒におられたそうです。
 あまりにも重要な再臨主としての使命は私たちが想像できない世界です。
その真のお父様の重圧を誰よりも理解された、二代王様享進ニムと国進ニム、どんなにそのお父様の御苦労を知って、涙されたか、想像もつきません。


 真のお父様と検索すると、韓オモニとの仲むずましい写真がたくさんでてきます、それを見ているUCのシックはまさか韓オモニが失敗したとは信じられないのでしょう。
ほんとうに真のお父様を慕い尊敬されていれば、おひとりで大きな椅子にたった一人で座るでしょうか?真のお父様との思い出を涙ながらに語るのが本当の真の母のすがたではないでしょうか?最近のお姿にまったくそのような内容はありません。ご自分の証ばかりです、早く気づいてくださいUCシック!!!


ネットのHPより掲載


勝利者の新歌 



● 何ひとつ希望が見えない時代に、勝利を確信してうたわれました



 文鮮明先生が作詞された歌のうち最も古いもので、一九四七年に作られました。
そのころ、先生は平壤(ピョンヤン)で「聖書を深く心情的に語る青年」として知られ始めていました。多くの人が集まるにつれて中傷や追害も激しさを増し、その急先鋒となったのは、教会の教職にある人々でした。この迫害の最中にこの歌は作詞されています。先生は二十八歳でいらっしゃいました。


 噂は噂を呼び、ねたみによる投書もあり、ついに「社会を騒がす者」の名で、共産党政権下の平壌警察が先生を拘束したのは、それから一年後の一九四八年のことです。これが筆舌に尽くしがたい「生きながらの死刑」と形容される興南収容所の苦役へとつながっていくのです。先生の原詞を、参考のため直訳してみましょう。


ホザナの新しい栄光を われらは奉り
栄光の新生命主に 喜び侍って
約束の大きい栄光を われらは捜し
幸福の自由の園 新しい歌をうたおう


日本語の歌詞


勝利者の新歌
(作詞:文鮮明師(1947年))
1. ホザナの栄光を 求めしわれら
   迎えよや 新たなる 栄えの生命(いのち)を
   約されし御旨(みむね)を われらは成して
     ※自由と幸(さち)の歌、喜び歌い
      自由と幸の歌、喜び歌おう


2. 暗き闇夜を 切り開き
   輝く朝は来た 新しき夜明けが
   鳴らせ高らかに 平和の鐘を
     ※自由と幸(さち)の歌、喜び歌い
      自由と幸の歌、喜び歌おう


3. 新しき生命(いのち) 受けしわれら
   誇りていざ歌え 新しき歌を
   選び給う(たもう) 御業(みわざ)を讃(たた)えよ高く
     ※自由と幸(さち)の歌、喜び歌い
      自由と幸の歌、喜び歌おう


4. 創りし主の御旨(みむね) 尋ねしわれら
   天(あめ)なる美と愛、輝かさん
   和動の花園をわれらは求め



 この歌は題も「新歌」であり、韓国語の歌詞には四番までの間に「新……」という言葉が十回以上も使われています。


 「信仰者は常に新しい心が生じてこそ発展する」「新しい心を持ちなさい。信仰はいつも楽しくなければならないし、感謝しなければならない」と、『御旨の道』にあります。古いものや既成の概念に縛られていては、信仰は炎となって燃え上がりません。


 「あなたがたは、……古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、……神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」というパウロの言葉のように、常に新しい人として、曇りのない本心で主に出会いたいものです。


 故柳光烈先生(前文化部長、歴史編墓委員会委員長)が持っている資料には、1曲は韓国に古くからあるメロディー(それは非常に郷土的なリズム)を土台として、創作編曲したものである」と記されていますが、この歌の原曲は金元弼(キムウォンピル)先生がうたってくださったところによると、日本の「朧月夜(おぼろづきよ)」で、「春風そよ吹く」というところから始まるようです。もっともリズムは変化しているので随分違った感じですが、原曲が日本から入って、地方歌や愛郷歌のように、民謡的にうたい継がれていったものではないでしょうか。日本のメロディーがこの歌の土台になったとは、意外でもあり、一層身近に感じられます。


※どなたかのネットより上記を掲載しました。。。